ジョジョ考察①「実は哲学書」

ジョジョの奇妙な冒険 作者 荒木飛呂彦 
(一部ネタバレを含みます)

※稚拙な文章で申し訳ありません

 かの有名少年誌、週刊少年ジャンプに長い間掲載され続けている(8部ジョジョリオンはウルトラジャンプ)、ジョジョの奇妙な冒険(作者 荒木飛呂彦)は私の大好きなマンガである。  実家にいた頃、というか子供の時、弟が買ってたし週刊少年ジャンプは定期購読していた。そのころはスラムダンク(作者 井上雄彦)、幽遊白書(作者 冨樫義博)が目的で読んでいたのだが。ある時、ページをめくっていると、自分の目がおかしくなったのか?と思われるシーンが。当時はジョジョでは第3部、主人公は一番有名な空条承太郎。このシーン、わかる人ならわかる、ヌケサクが自分で棺桶開けたのに棺桶の中に自分が入ってるシーン。この奇妙な感じの謎が知りたく読み続けてはまっていってしまった感じだ。(1部2部、3部の途中までを読んだのは大学生になってから)
 このマンガ、よく取り沙汰されるのは、擬音、ジョジョ立ち、絵が苦手な女子が多い、など。ある意味とても有名だ。そしてコアなファンも多い。だがしかし、ただの冒険譚でも、奇妙な漫画でもない。作者の荒木飛呂彦氏の価値観や哲学がとても反映されている。その部その部でテーマがあって、そのテーマに対抗するような形でラスボスが設定されている。この部分が一番わかりやすいのは第5部。
 第5部の終盤、主人公チームの1人アバッキオの同僚が夢の中で言うセリフ(名言で有名)「結果だけを求めていると人は近道をしたがるものだ、、、、、、」「大切なのは真実に向かおうとする意志だと思っている。向かおうとする意志さえあれば、、、いつかはたどり着くだろう?向かっているわけだからな。違うかい?」 学生であっても、社会人であっても求められてるのは今の時代、結果だ(成果主義)。それは私も会社員であるしわかっている。しかし一歩間違うと評価を誤りがちだ。結果だけで評価するとこの先同じ事象が発生した時、対応できると限らないからである。目的のためにしかるべき道のりを進んでいったからこそ実を結ぶことができた結果。しかるべき道を進んだ時そこには足跡が残る。この道標があるからこそ次に進む時迷わず向かうことができ、結果たくさんの実をつけることができるのではないか。過程を蔑ろにして結果が出たとしても、それは後には続かない。その時だけ結果が出ているように見えても実はいくつも先を見据えた時大きく後退して行くであろう未来が見える。 ボスのディアボロの有名なセリフ「『結果』だけだ!この世には『結果』だけが残る」途中の過程を吹っ飛ばし、結果だけが残る能力。しかし、真実に向かって進む主人公たちに追い詰められ、『結果』にたどり着けない、という主人公の覚醒した能力によりボスは倒れ去る。 この他第3部のボス、DIOの名言「過程や方法なぞどうでもいいのだ、、、」であったり、第6部のボス、神父プッチが言う「5年後の未来、なにが起こるのか?人類全員がそれを知っている。、、、すでに体験してここにきた。そしてそれこそ『幸福』である。独りではなく全員が未来を『覚悟』できるからだ『覚悟した者』は『幸福』である!」  この二つの例と合わせて、抗えない「結果」に対して人はどうすべきか?「結果」が変わらないのだから「結果」だけ知っていれば良い、またその「結果」は運命によって決まっているのだから尚更過程などは要らず、訪れるであろう結果を知ることがわかれば人は安心することができる。それを求める事が幸せに生きることに繋がる、、、ということなのだろうが、この抗えない運命によって決まっている「結果」、人は運命に逆らえない、、、この「運命」の部分
 第5部エピローグは「運命の奴隷」「誰が言ったか、、、我々は皆『運命』の奴隷で、変えることのできない運命に頭を垂れ隷属せざるを得ない、、、」主人公チームの何人かは死んでいく運命はもう決まっていることでも、その先に進むことでかえって一層苦しい死が待っていようとも、それでも彼らの取った行動には何か意味があるとし、彼らを「眠れる奴隷」と表現している。運命で決まっている結果が同じであっても、進む過程で未来に何かをもたらすかもしれない。
 今ある自分は全て「運命」で決まっていた結果。この先もたらされる「結果」も決まっているのかもしれないが、であれば尚更自分が後悔しないように前へ進もう。迎える結果が同じであっても進んできた道で他の成果が生まれるように努力しよう。
 私が歩んできた道は私1人ではたどり着けなかった道。失敗ばかりであったが、とても誇らしいのは私に関わってくれた彼らのおかげだと思っている。私にとってはこのマンガは偉大な哲学書なのだ。

(ジョジョ好きな方、勝手な考察謝っておきます)

次回、尊敬すべき団塊の世代「私の両親のこと」