大学受験失敗から予備校生時代

大人になってもう一度世界史を勉強しようと思った

 大学受験の真っ只中にあろうことか好きな人ができておかげさまで見事に受験は失敗した。私はあっちもこっちもうまくやっていける方ではないので、あの頃勉強が手につかなかった。その理由とは別に、私は団塊ジュニアなので人口が多い世代で、さらに上の学年から雪だるま式に浪人生も増えていってというのもあり、私の周りの友達は大体浪人した(笑)

 みんなそれぞれの場所で浪人生活を送り、私は地元の予備校へ通った。中浪時代にお世話になった予備校へ。前のブログでも書いたけど、3バカトリオでまた通った。
 浪人生活って結構しんどい。中浪時代とは違って高校卒業って立派な大人の仲間入りの歳。社会人でもなく、学生でもなく今でいうニートなわけである。自分自身に負けそうになる。だからといって勉強に集中できるかといえば意外にそうでもない。高校時代に好きだった人とはまだ連絡をとっていたし、でも彼は東京で浪人生活を送っていたので会えないし、遊べないし、今と違って家電(いえでん)でのやり取りだからまめに連絡も取れない。まだまだ未練はあって、やつも私が未練あること知ってて微妙な距離を保ちつつ切れないようにヤツは連絡をくれた。

 でも毎日会える人に目移りするわけですね。浪人生活も終盤戦、という時に、同じ予備校のとあるシャイな男子が(でも模試でマークなら全国3位、記述なら全国1位という予備校のエース)が朝、通う駅で待ち伏せしてくれて約束して、帰りちょっとしたプレゼントをいただいたのです。しかもその日はイブ。
 クリスマスイブって付き合ってる人がいる時もいろんな理由からロマンティックな夜を過ごしたことないし、自分自身、あんまりイベントごとってどうでもいいんだけど、この時のイブが一番嬉しくって思い出に残るイブだ。彼は予備校のエースで、実は1っこ上の人。話もたまにで、あいさつ程度だと思っていたんだけど、私は。でもお互いにその予備校長いから先生を絡めての交流はあったんだけどね。彼が弘前大学受けるっていうからじゃあ弘大でいいかってう安直な考えで大学を選んだんだけど、彼は長崎大学の医学部に行ってしまった、結果的には。
 というわけでろくに勉強もしない浪人生活も終わり大学生になるわけだが。予備校に貢献してた?私はバイトをもらえた。当時の私は、青森県から出ることを考えていなかったし、青森県は知ってのとおりなかなか就職も難しいところ。手堅く公務員になろうと思って、大学の講義も法律関係の選択が多くなっていた(私は文系で経済学科、経済学なら専門でできるので、公務員試験に必要なのは他ほぼ法律関係)。

 ある時、当時の予備校の物理の先生と、まあ生き方について話す機会があった。予備校の先生たちも若く、20代前半から30代前半までで、だからご飯に行ったり、飲みに行ったり仲良くさせてもらっていた。 話の過程で、多分私は言ったのだろう、

「結婚して子供は欲しい。でも夫婦がうまくいかなくなった時、生活が不安で離婚できないと情けないことを言うのは嫌だ。それが理由で結婚生活を我慢するのも間違ってる。だったらしっかりした就職をしないといけない、なら公務員が一番だと思ってる」

「お前さぁ、今からそんなことガチガチに考えてどうすんだよ。人生は思ったようにいかないし、予測できないことばかりだし、予測できるような人生なんて逆に考えたらつまんねーだろ」
私も若かったんだねー、そして子供だった。
 彼は横浜出身。私に言葉の意味を教えるべく、自分がなぜ今この地、弘前市にいるのか語ってくれた。横国(横浜国立大学)の工学部を出て1級建築士になった彼は売れっ子だったらしい。独立開業し、目まぐるしく忙しい日々を過ごしたのだそうだ。そんな中、奥さんに言われてしまった「あなた誰?人間の顔してないよ」って。改めて自分の顔を鏡に写した時初めて自分がおかしくなっていることに気づいた、俺は誰だった?って。

 そして、建築事務所をたたんだ。自分探しをする旅に出た。全国各地に散らばった学生時代の友達に会いにいった。自分を取り戻そうと思って。その途中で弘前市が気に入り、移住することになったんだそうだ。奥さんもすごい人だなあって感心もしたし、今、私の言葉でここで文章にしても説得力に欠けるかもだけれども、彼の言葉には経験からくる説得力があって、その時から私は考えを少し変えました。 

 いろいろ先を考え、前始末をするのは正しいし、必要だ。でも、何が起きるかなんて本当のところ実は予測できるかといえばある程度のこと。何が起こるかわかったもんじゃない。ならその時、対応できる力が重要だった。 対応力って?性格的なものもあるかも知れないけど、実は教養が一番大事だ。いろんな有事に対応するためには多岐にわたる知識とそれを知恵に変える力が必要だ。これから学ぶみなさん、また大人の皆さんも、やっぱり学びは大事なのです。
 勉強勉強ってうるせーなって思うかもしれないこと書いてるけど、受験のために勉強するわけではない。人がこの地球上にどうやって生かされているかも一般教養から学び取れるのです。「人間万事塞翁が馬」とは言うけれど、知識を蓄え、ぜひ今後の人生を色んな意味で楽しんでいきたいですね。

。。。。。予測不能だからこその楽しみ方

怖いものなしの中学から初めての挫折へ

 浪岡中学校 卒アルより

中学に入学した。

私は団塊ジュニア、中学の学年は320人。8クラスまであった。小学校の先生がどのように配置したのか、明らかに意図があったと思う。入学早々小学校のいじめのボスは見事に2番手だったやつにいじめられていた。実は2番手だったやつは私の近所の子で幼馴染。家庭的に恵まれておらず、このあたりの地域の人には相手にされていない家庭の子であった(あそこのうちのこと遊んではいけません、とよそのおうちでは言っていたらしい) 

 その2番手だったMが中学ではボスになった。しかしMはぜったい私には逆らわない。私に嫌われるのだけは避けたかったと思われる。理由は、先に書いた、そのような家庭であって、それでも私の父は受け入れてたからだ(私の父は地方公務員であったが、大学では法律を学んでいた。人間はすべて平等であるべきだし、幸せに生きる権利も等しく付与されている。この価値観がのち、私の価値観のベースになる。老若男女区別しない、男であっても女であっても、年上だろうが年下だろうが尊敬できる人は尊敬できる、できねぇやつはできねぇ、これがホットパンツの生き方) 

 そして、私の世代は先輩後輩が厳しい時代であったが、私はこういう正確な故、なぜ、先輩が偉いのか意味が分からない(今でもわからない)。というわけで目を付けられやすかったが2個上の先輩に、姉妹くらい一緒に育った幼馴染のお姉ちゃんがいる。彼女も学年では幅を利かせていたため、先輩からいじめられることもなかった。 中学の頃は私は成績が良かった。優等生ではなかったが、いじめをなくしたり、もとより正義感も責任感も強かったので先生の受けもよかった。

 怖いものがなかった。人生で一番性格が悪かった時。 

 中学3年の時、いるだけの生徒会でアンケートを実施した。一番多かったのは校則について。普通の生徒は生徒会の仕事なんて全然興味がないと思う。だが校則についてはものすごい反響だった。やる気のない私でもこれだけは何とかしたいと思い先生に相談した。特別委員会を設置することを認めてもらえた。クラスから校則見直し委員を一人選任し、会議。名目上の委員長は生徒会長であったが、実質は私が運営した。当時の生徒会の顧問は社会科の先生。

「先生、どうやったら校則って変えられるのか」

「お前、公民学んでるだろ?条例を見直してほしい時、リコール請求するとき、どうするんだよ?住民自治勉強してるだろ」

「有権者の1/3の署名を集めます。そして議会に提出します」(正解かどうかは忘れた、当時の私は先生にこう答えた)

「ここではせめて9割は集めろ。その前にどの校則を見直してほしいのか、改善すべきか。多くは変えられない。しっかり精査しろ。職員会議には俺が持って行ってやる」

この先生、見た目は超オタクみたいで根暗に見える。がしかし、しっかり本質を見ていて、それがわかるぶん本当に信頼できると感じられる人だった。先生は自分の友人のやっぱり教員仲間から他校の校則を集めてくれた。

 結果、即実施できるもの、来年度から実施するもの。改正案通りました。下の学年は感謝したことだろう。このあたりの地域では、一番に男子の坊主がなくなったのだから。これをきっかけに近隣の中学で、校則の見直しが進んだらしい。永澤(?漢字あってるかな笑笑)先生のおかげで、彼だったから、答えではなくヒントをくれたのだと思っている。「条例を変えたい時どうするんだよ」知識は身に付けたらどうするのか?習ったばかりの知識を知恵に変える方法を彼が教えてくれた。この先生と出会ってなければ、あきらめていたかもしれない。自分でやると決めてやり切った、この校則の見直しは今後のわたしの自信になった。

 もう一度言うが当時の私は成績が良かった。模擬テストで県でも上位、一番いい時は県で3位。難関校と言われていた弘前高校は定員360名。他の地域に青森高校、八戸高校と進学校があるがそもそも県で上位なのだから、誰もがわたしが弘前高校に合格すると思っていただろう。自分も思っていた。私立なんて受験せず、弘前高校一本のみ。

私は当時は怖いものがなかった。しかし受験は不合格。

みんなが高校生になったとき、私は高校生にはなれませんでした。

そして「中学浪人から大好きな人がいた高校時代」につづく