平成の大合併〜出身地がなくなるということ〜①

2022.1 年明けまだ雪深い実家前の公園にて

ⅰ.浪岡町とは。合併に至る経緯。

*私見を含みます。また振り返っての文章なので、間違いがあったらすみません。

2005.4.1 浪岡町は青森市と合併し消滅した。

今は青森県青森市になってしまったが、元は青森県南津軽郡浪岡町であった。南津軽郡に属していたので当然のように学区は中弘南黒地区(中津軽郡、弘前市、南津軽郡、黒石市をまとめた地区)。なので当たり前のように弘前の高校を選び、大学も地元の国立を選ぶなら普通にJRで通いなれた感じだからまあいっかくらいの感覚だ。

 この頃は浪岡町に終焉が来るとは思っていなかった。

 中学になると社会科で地理や歴史、公民を勉強するが、地図帳を見るのが好きであったし、人口密度やその街の産業など調べるのが好きだった。自分の住んでいる浪岡町の特性や、他と比べての強み、また弱いところなど、自分なりに分析して父と話したりしたものだ(父親は浪岡町の職員であった)。小学校6年の時の夏休みの自由研究で、浪岡町の城跡、浪岡城について全校生徒の前で発表したりなど思い入れがある。りんごの生産量は弘前市が全国一位であるが町村で見るなら浪岡町が一位であった(その当時)

*浪岡城とは

築城主 北畠顕義(始祖 北畠親房 後醍醐天皇側近「後の三房」の筆頭。『神皇正統記』が有名)途中の系図は諸説あり。1460年代に築城。1578年大浦為信(のちの津軽為信 弘前城築城主)により落城。参照資料Wikipedia

合併問題が起こっている頃、ちょうど長男の出産のために里帰りしていた時だった。当時の浪岡町役場の町長が合併推進派であったこと、青森県知事、青森市長、代議士と懇意であったため、今思えばこの町長が当選したのは合併を進めるためだったとしか思えない。しかしながら、どんな選挙活動をされていようが、一票を投じるのは浪岡町の有権者である。結局、町民の意思(民意)なのであろう。そう思うしかない、今となっては。しかし、いよいよ具体的に決まりだすにつれて、町民は気づき始めた。新しく合併反対派の町長にとって変わっても、合併が議会で可決してからでは遅かった。合併の是非を問うための住民投票を行うも、反対派の署名がおよそ9割であっても、県で賛成多数で議決、合併決定書が出された後では覆るはずもなかった。県に出される前から浪岡町の町民は署名活動を行い民意を主張すべく議会に提出するも2回とも否決。そもそも合併推進派の議員多数の中、通る訳などなかった。

 まだ大学生だった1999年当時は、政府主導で地方分権を推進する観点から合併を促す動きではあったが、浪岡町は単独で行く方針を貫いているはずだったし、まさか合併になるとは。編入合併という形になるので、2005.4.1をもって浪岡町の法人格は消滅した。

 合併自体が悪いと言っているのではない。地方分権を推し進め、国家の機能を分担していくべきであるし、その考え方からも、あの当時、合併を促す方針は時代背景としては間違ってない。(当時は規制緩和、金融ビックバン、郵政民営化、第3次ベンチャーブームの時代。国家の機能が成熟し、機能を縮減すべく、一部は地方や民間などに委ねていく流れ。転換期)

 しかし、地方の在り方を今一度考えるということはいい。しかし、浪岡町にとって、青森市との合併は一番避けなくてはいけない合併の形である。このまま単独で行くか、せめて近隣の町村と合併するか、山一つ超えた青森市と合併するなど、考えたこともなかった。浪岡町は地理的には青森市と弘前市の間に位置する。弘前市と浪岡町の間にはいくつか南津軽郡の町村が間にあって、弘前市との合併はまずない。浪岡町にとって一番いいのは単独で行くこと。青森市とは隣り合っているが実は山一つ挟んでいて、浪岡町から青森市街に行くにはなかなかの距離がある(冬場は山を越えるのに道路が凍結して、地元民でもなかなかしんどい)

町民にとって、一番あってはならない合併が実現してしまった。

次回へ続く

ⅱ.青森市合併後。浪岡地区の今。そして。

 

帰省して改めて思ったこと

家の前の公園にて

 年末年始の繁忙期を終えて休暇をもらった。母が入院したので家や父が気掛かりだったのと、弟に3人目の子が誕生したこと、冬休みを終えた長女をアパートに送っていくついでもあって時期的にはちょうど良かった。

 今年は雪が多いらしい。私の実家があるところは元々雪が多い地域。青森市に合併される前、南津軽郡だった頃、この中弘南黒地区ではとても雪深い地域で、JRで弘前から浪岡に帰る途中、浪岡に入る手前で明らかに雪の量が違うし、大体吹雪いていたようなイメージだった。
 雪国じゃない人には想像つかないかもしれないけど、道路がすり鉢状になってて車同士すれ違うのに、滑って、道路のセンターラインによって行っちゃうから大型同士だとぶつかって立ち往生はよくあること。そして除雪にコストがかかるし、自治体の財政圧迫するし。
 というわけで今回帰省して思ったこと。やっぱり地の利ってあるんだよね(中央から離れている地方は不利)。こればっかりはどうしようもない。

①中央から離れているので、どうしても働く場所に制限がある(今はネット社会だが、製造する工場なんかがなくなるわけではない。カネとモノは中央に集まるのだから、離れているほど輸送にコストがかかる)

②雪が経済活動においてマイナスに働く(まずは先に述べた通り、自治体の財政を圧迫する。除雪、融雪、その他の整備。雪囲いとか然り。農業はできない。雪が溶けるまでは畑は使えない、個人の生活でいうと、車も家も寒冷地仕様。だからといってお金はかかるが長持ちしない。傷みやすいのでメンテにもコストがかかるし、使える素材にも制限がある)

 こっちに来てよく言われたこと「みんな出稼ぎに関東来るってほんと?」田舎者の表現の一つとして出稼ぎという単語を使っているのか?先にも書いたけど、冬は農家の方は畑使えないんだって。よそに働きに出るしかないの。
 関東に来て、便利なところだと思った。生活するのに不便はない。栃木県民は車がないとどこにも行けないというが、逆にいうと、車があれば行動範囲が広がる。どこにでもいけるし、見識も広がる。雪がない分運転に困らない。雪が降ったから通勤できませんは東北だとありえないよ。ここまで読んだ感じだと、青森あたりで生活するの大変そうってなると思うけど、そういうところで育つと、逆にどこででも暮らせる。経済的に不利なのは県民もわかっているから、それを受け入れて生活している分「強い」
 私、東京あたりの人が田舎暮らしに憧れるとかいうけど、無理だと思うもんね。田舎にもよるかもだけど。
 私も強い。元々田舎者だし、こっちに来たとき覚悟してきてる。

「うわぁ、とても青森からきたようには見えないね」

って言われたんだけど、これ褒めてる???青森県民馬鹿にしてるんかなって思ったよ。でも覚悟してきた。そして、耐えられる根性は東北人は持ってる。東北大震災の時の傷跡、まだまだあると思うけど頑張れ東北。私も電気水道止まった経験は4回目。周りの近所の方に聞いたら3.11が初めてだって言ってた。災害もないし住みやすいところだよ。自分の住んでる地域に感謝しよう。雷は多くて、これは怖いけどね。雷は怖くなったね。
 なにはともあれ栃木に来て20年以上経ってしまった。おかげさまで楽しい日々を送れている。育ててくれた地域に恩返しができないことと、どんどん寂れてる感が否めなく、心苦しいのだが、今はなんとかこの地が(今住んでるところ)が発展していけばいいと思ってる。しかも宇都宮がしっかりと中心になって盛り上がってくれたらいいな。宇都宮BREXを、他の地域からたくさん応援に来てもらえるよう、来やすいように発展していけばいいな。
これが今の私の願いで、できることがあれば協力していきたい。
です
(結局BREX の応援で終わったよね。大好きだからね笑)