洋服とわたし

M6H 634色 ロングスリーブTシャツ

わたしは特におしゃれが好きなわけではありません。センスがいいわけでもないです。ファッション雑誌もほとんど読みません。美容院に行ったら真っ先に目を向けるのは「もんみや」のbrexのページ。総合情報系の雑誌の方が好きです。まあ、でもほとんど読みません。なので、若い女性の流行ってて持ってるバッグのブランドもわからないし、そもそもブランドがわからないし、ZARAにも行きません笑笑。

人によっては周りについていくために頑張ってブランドを勉強し、わざわざ買いに行き、覚えたアイテムやワードを使いたがって羅列している人も多いでしょう。

流行っているコスメに関しても同じ、髪型だってそう。ほぼ興味がありません。わざわざこちらが興味ないって言ってるのに、いろいろ教えてくる人にはうんざりします。それでいてチグハグなメイクしてたら説得力ないじゃん。だがしかし、興味あることに関しては食いつきます。韓流大好きな友達がしつこく韓国コスメを持ってくるものだから(お礼のつもりらしい。ブレックスの試合に何回か連れて行ったりしたので。本当はほぼわたしのわがままに付き合ってもらっただけなんだけどね笑笑)、コスパが抜群じゃん。質も高い。パック、浸透力がハンパないって。今更かもしれませんが、国産は、の割に高いもんね。

 わたしは、わたしを振り回してくれる人が好きです。この友達はネガティブでしつこくて人の話は聞かず、自分が一番不幸だと思っているし、興味ないって言ってるのに、しつこく毎回毎回韓国コスメを持ってきました。「一回騙されたと思って使って」って、試供品やら、100こセット買ったから全種類1枚ずつあげるから使ってみてよってね。折れたカタチになったけど今では良かったと思っています。実際、彼女はわたしと違いオシャレが好きで、出かけるのも好きで、メイクとか可愛いもの、かっこいいもの、音楽フェスとか、UKロックとか大好きな人です。だから、そういった点では説得力があったというか、そういうところの信頼はありました。本筋から外れましたが、彼女は全く持って付き合いづらくわがままですが、でも捨てられない笑笑。まあまあ、わたしを振り回す困った友達です。

 わたしのブログを何回か読んでくれている方ならもう知ってるかもしれませんが、わたしも変えられない一本筋の通った哲学を持っています。普段は人に合わせることもあったり、ヘラヘラしてみたりすることもあります。怒られ慣れてるので、上司に怒られても、失敗して部下に笑われてもふにゃふにゃしていても、自分の自分が嫌いではないのです。きっと自信がある。だから何言われても平気なわけですね。ダメなものはダメなんだから間違ったのなら咎められる。それは上だろうが下だろうが関係ありません。

わたしはおしゃれではありません。でも、着る服に迷いはありませんし、自分をダサいと思ったことはありません。髪型もそうです。女性らしく、ワンピースを着て、ロングヘアーの巻き髪が(マコさんは好みなのでしょうが笑)、男性ウケがいいことも知っていますがわたしが特にしたいスタイルではありませんし、わたしの個性ではありません。今までの彼氏の好みに合わせたことはありません。わたしのコンセプトがあるとするなら、「好きなものを好きなように着る」「服や髪型でいかに遊べるか」です。生き方も同じ。いかに自分の人生を生きられるか。結婚するときにこれを条件にして栃木に来ました。実際はそんなに勝手に行くものではないことも知っているし、家族を大事にしていないように思っている方もいらっしゃるでしょうが、わたしの子供たちはこの一風変わった母親を自慢に思っているようです。そもそも結婚自体しなくてもいいと思っていました。わたしの両親は結婚はただの選択肢の一つで、最高の選択肢だと思ってはいません。

もし、おしゃれをしたいと思う人がいて、なんでオシャレになりたいのか考えて、人は可愛くなりたいしカッコよくなりたいし、なんでだろう。好きな人に好きになってほしいから。自分に自信を持ちたいから。視線を集めたいから、自分に目を向けてほしいから。いろいろあると思うけど、まずやることは、自分をしっかり持つこと。自分を知ること。人と比べることなく、個性を大事にできるようになること。揺るぎない自分のある人は目を引くだけの魅力があります。可愛いとかかっこいいとかだけではないんだけども。ある種、さまざまな見え方で目を引くこともあるけど、それは存在感というやつです。何を着てもどんな格好でも、また何を着たって恥ずかしくないし、様になるようになるし、むしろみんなが避けていたアイテムですらおしゃれアイテムになることもあります。

 このブログで、「それは個性」という回で比江島選手の魅力を語ったけれども、やっぱり個性なんです、人の魅力は。人自体の持つ魅力との合わせ技ですね。選ぶアイテムによってはより独特な味を引き出せると思います。

服は自由に選んで楽しんで着ることが一番大事だと思うし、今は選択肢が多い時代です。ただアイテムの活かし方はあると思っています。着方を間違うと、アイテムが台無しにあることがあります。モデルやマネキンが着用しているアイテムをそのまま着ても、またスタイル(この場合は肉体的な面で)が抜群に良くてモデル体型でも、まるでおしゃれにならない人もいます(なんでだろうと思うんです。身近にいるのですが)。何を着せてもしっくりこない。見た目の作りは悪くないはずなのに。

おしゃれに関わらず、そのものの持つ意味やコンセプト、解釈を間違うと価値がとても下がります。洋服だけでなく、モノの持つ意味の解釈だけは間違わないように生きたいですね。

私について

リビングの窓ガラスにくっついてたナナフシ

 そういえばちゃんと自己紹介してなかったな、と思って。

先日、朝起きてカーテンを開けると朝日と共に目に入ってきたナナフシ。私、これ人生で2回しか見たことないんですね。めちゃくちゃ嬉しくて、職場に行ったら自慢したくてこの写真見せたのに、

「ぎゃー」

だってさ。そんなに気持ち悪いムシでもないよね。農業体験の時も、ミミズやカエル、ナミアゲハの幼虫もいたけど、みんな苦手なのかなぁ。この世界に「生きとし生けるもの」なんですが???

私の2人の子供達、長女は弘前大学 農学生命科学部 分子生命科2年、両生類爬虫類、特にイモリの細胞の再生能力を研究したいがために弘前まで。長男は高3だが、水生生物、海洋生物、外来種、両生類爬虫類、昆虫、、、生物系の自分の学力で入れる国立大学を今探している状態。私の子供達には、幼い頃からよく山や沼に連れていったし、家に飛んでくるアゲハが卵を産み羽化するまで一緒に観察したり、カブトムシの幼虫から育てたり、犬も猫もミドリガメも金魚がいたこともあったし、生物を好きになるのは当然の環境。そしてそもそも、何より、いわゆる女子が苦手な虫や両生類爬虫類を見た目で「気持ち悪い」と思う価値観に育てたくなかったというのがある。

何が苦手だって、誰にでも苦手なものはあるから否定しているわけじゃないぞ。ただ、無限(本当は有限)に広がる宇宙空間にさ、生かされてる生命の一部でしかないんだって考えたら、生命体って新しく生まれるものも進化するものも含めたら、ただのホモサピエンスが何言ってんのって思わない??

理系文系関係なく、哲学的にもさ、見え方の問題。前ブログで書いたっけ?考えや価値観、会話から生まれる言葉の捉え方、目に見えるもの、みんな違う。そして右倣えみたいなのは最も嫌い。私、喋らない時全然喋らないよねって、人見知りなのって言われたんだけど、全く違ってて、人と話すのは苦じゃない。ただ、私、周りに合わせる性格してないから相手を見て、自分の価値観押し付けてくるタイプとは話さないようにしてるだけ。聞かないじゃん、そういう人って。でも違った考えでも、聞こうとする人の話は私も聞きたい。そういう人の言葉は、ちゃんと自身の考えのもとに成り立ってることが多いから、話してて楽しいよ。

 今回はナナフシの流れから、価値観の方に膨らませたけど、元々は世界史も好きです。人間が初めてコミュニティを形成して文明が生まれてからのさまざまな葛藤を学ぶのは楽しかった。この先も解決する日は来ないだろうが(葛藤の最悪の形が戦争)。

 自己紹介になったかなぁ。「この世にあるというものならなんでも見てみたい」(好きな漫画の大好きな登場人物がいうセリフ)。わたしの根っこ。そのためになるべく視野を広げてみるようにしようと自分なりに心がけてきた、子供の頃から。

「へぇ、お前にはそういうふうに見えるのか?」

って聞いてきたのは私の父親。カナヘビやアオダイショウ、オニヤンマを山で捕まえてきてお土産にしてくれたのも父親。私こそ、親の影響が大きいんだった。

 価値観が単一なのはきっと団塊世代(あくまで私の考え。昭和の時代にはしょうがない。そういう教育だったんだし)。私ら団塊ジュニアはちょうど過渡期。そうであるべき、いや変わるべき、いろんな価値観を認めないとと思い始めた世代。だから同級生の中でもさまざまだね。実はこの子供達の世代は意外に親(私たち)が思うより、いろんな価値を認めあってる世代。さまざまな価値観や生き方を選択できている。私は、心配じゃなくて、10代から20代くらいの世代をむしろある種尊敬しています。学んでる内容(具体的な学習内容)も私らの時より難しいと思うよ笑笑。

 虫や両生類爬虫類苦手な女子多いって言ったけど、長女の学部、大体男女半分半分だけどちょっとだけ女子の方が多いんだって。アメリカツノガエル30匹飼ってる研究室が人気なんだよ。カエルやナナフシ見て「ぎゃー」っていうのは私ら世代の価値観なんじゃないのかぁ。。。笑笑

イジメを克服するまで 番外編

「 いじめを克服するまで」に出てきた5人の仲間の内の一人、Yちゃんの話。

 小学校4年になるまで知らない子だった、お互に。4年で同じクラスになり、部活動で同じトロンボーンだったこともあり、すぐに仲良くなった。家に行き来するようになり、近所だったせいもあって親同士も仲が良かったようだ。

 4年でいじめが始まったとき、彼女はそのグループにいた。この時の彼女は何にも考えておらず、ただのノリだけだったと思っている(子供だったし、4年生)。実際に、4年の時まではそこまで激しくなくケンカの延長に付き合わされていたようなものだ。ボスが3年生までいじめられてた事もあり、一緒にいじめられてたKを4年生になった事をきっかけに仲間はずれにしたかったようだ。(3年の時にいじめてた元ボスと、いじめられてた二人が同じクラスになってしまった。元ボスがまた同じクラスにいるため、Kをいじめることで最初は元ボスに取り入るためだった。が、立場が逆転してしまい、現ボスになった。というわけだ)

 5年になると本格的ないじめになった。ボスはニセモノの強さに翻弄されて、強いと勘違いして自分に歯向かうものの心を次々に殺していった。(内容はかきません。間違うと犯罪になる行為)男子までも。他のクラスまでも。ターゲットはクラスの女子だけでなく、男子も恐るようになり(因みにうちの男子の中に小学校の男子のボスがいる)、学年全部に広がり、終いに小学校中のボスになった。 

 部活の後輩の学年の親から小学校に訴えがあがった。いじめの発覚。この時、Yちゃんの親はうちの親に謝りに来ていたらしい。あの時、私の母親から聞いたことは、信じていた娘がいじめのグループに所属していて、私のことも無視したり仲間はずれにしたことについて、立ち上がれないほど謝罪していったと。こっちがいじめられていたにも関わらず私の母親も涙がこぼれたと言っていた。Yちゃんの母親はひどく憔悴しきっていた。

 この時初めて、Yちゃんは自分が軽い気持ちでいじめグループにいた事がどんなに浅はかであったか知ったのだ。仲間を抜けた。いじめの対象になった(職員会議を繰り返し、部活が停止になっても根本の解決にはならず、いじめは続いた)。無視されても、教科書や机がぼこぼこになっても、髪の毛を燃やされて一部ハゲになっても、彼女は絶対負けなかったし、泣いたところは見たことがない。凛としていて強い女性だった。 

 6年になって私がいじめグループに逆らおうと言ったとき彼女が1番に相談に乗ってくれた。そして1番信頼できたから、最初に声をかけた。いじめグループにいたのに、どうして信頼していたのか。私はもともと彼女がどういう人間か知っていた。彼女の母親のことも知っていた。Yちゃんはとても賢く、文学が好きで、音楽も好きで、スポーツもできて、可愛くて男の子にも人気があった。賢いが成績は良いわけではなく、遊び人だった。そこが人気の理由。彼女はここまで素晴らしいセンスの持ち主でも優等生ではなかった笑彼女のことも信頼していたが、彼女の母親の哲学がしっかりしていた(普段はただのおもしろおばさんだったが)

 私見になるが優等生であろうとする人に本当の優等生はいない。実は先生も体感でわかっていて、本当に重要な案件はいわゆる優等生タイプに求めないところがある。人が人を信頼するとき、うわべでどうあるかというより、心の奥の奥にあるものを見抜くことが大事な鍵だ。

 Yちゃんとは高校・大学は違えど、通ってたところは同じ弘前市であったので、私が栃木に来るまで一緒に遊んだ。一番最初にカメラのことを聞いたのは実は彼女。大学の時カメラ部に所属していた彼女は自室に暗室があった。デジカメではないので加工なし。セピアな写真もアナログと自分の技術で撮る。私はカメラは全然やらなかったけどよく話を聞いたり、見せてもらったりしていた。

 中学の時の私の初恋相手の彼女がYちゃんと知らず相談したり、高校の時紹介した男の子と、ものの3日で別れたり、私も彼女には振り回されたが、それでも一緒にいじめを克服した時の大事な仲間で親友で、とてもクレバーで強く美しく私の憧れ。どうしてるかな

 私はすぐ泣くし、Yちゃんみたいに強くない。ただ彼女と同じ点がある。自分の心の奥の核となる部分、絶対に曲げられないし、譲れないところ。周りからどう見られても、カッコ悪く、アホみたいなフリしても奥にあるものが信じられれば生きていけるのです。Yちゃんの底にある部分が私は信じることができた。私の初めての信頼できる友達の話でした。きっと誰にでもこういう経験ってあるはず。忘れないで生きていきたいものです。  

ジョジョ考察①「実は哲学書」

ジョジョの奇妙な冒険 作者 荒木飛呂彦 
(一部ネタバレを含みます)

※稚拙な文章で申し訳ありません

 かの有名少年誌、週刊少年ジャンプに長い間掲載され続けている(8部ジョジョリオンはウルトラジャンプ)、ジョジョの奇妙な冒険(作者 荒木飛呂彦)は私の大好きなマンガである。  実家にいた頃、というか子供の時、弟が買ってたし週刊少年ジャンプは定期購読していた。そのころはスラムダンク(作者 井上雄彦)、幽遊白書(作者 冨樫義博)が目的で読んでいたのだが。ある時、ページをめくっていると、自分の目がおかしくなったのか?と思われるシーンが。当時はジョジョでは第3部、主人公は一番有名な空条承太郎。このシーン、わかる人ならわかる、ヌケサクが自分で棺桶開けたのに棺桶の中に自分が入ってるシーン。この奇妙な感じの謎が知りたく読み続けてはまっていってしまった感じだ。(1部2部、3部の途中までを読んだのは大学生になってから)
 このマンガ、よく取り沙汰されるのは、擬音、ジョジョ立ち、絵が苦手な女子が多い、など。ある意味とても有名だ。そしてコアなファンも多い。だがしかし、ただの冒険譚でも、奇妙な漫画でもない。作者の荒木飛呂彦氏の価値観や哲学がとても反映されている。その部その部でテーマがあって、そのテーマに対抗するような形でラスボスが設定されている。この部分が一番わかりやすいのは第5部。
 第5部の終盤、主人公チームの1人アバッキオの同僚が夢の中で言うセリフ(名言で有名)「結果だけを求めていると人は近道をしたがるものだ、、、、、、」「大切なのは真実に向かおうとする意志だと思っている。向かおうとする意志さえあれば、、、いつかはたどり着くだろう?向かっているわけだからな。違うかい?」 学生であっても、社会人であっても求められてるのは今の時代、結果だ(成果主義)。それは私も会社員であるしわかっている。しかし一歩間違うと評価を誤りがちだ。結果だけで評価するとこの先同じ事象が発生した時、対応できると限らないからである。目的のためにしかるべき道のりを進んでいったからこそ実を結ぶことができた結果。しかるべき道を進んだ時そこには足跡が残る。この道標があるからこそ次に進む時迷わず向かうことができ、結果たくさんの実をつけることができるのではないか。過程を蔑ろにして結果が出たとしても、それは後には続かない。その時だけ結果が出ているように見えても実はいくつも先を見据えた時大きく後退して行くであろう未来が見える。 ボスのディアボロの有名なセリフ「『結果』だけだ!この世には『結果』だけが残る」途中の過程を吹っ飛ばし、結果だけが残る能力。しかし、真実に向かって進む主人公たちに追い詰められ、『結果』にたどり着けない、という主人公の覚醒した能力によりボスは倒れ去る。 この他第3部のボス、DIOの名言「過程や方法なぞどうでもいいのだ、、、」であったり、第6部のボス、神父プッチが言う「5年後の未来、なにが起こるのか?人類全員がそれを知っている。、、、すでに体験してここにきた。そしてそれこそ『幸福』である。独りではなく全員が未来を『覚悟』できるからだ『覚悟した者』は『幸福』である!」  この二つの例と合わせて、抗えない「結果」に対して人はどうすべきか?「結果」が変わらないのだから「結果」だけ知っていれば良い、またその「結果」は運命によって決まっているのだから尚更過程などは要らず、訪れるであろう結果を知ることがわかれば人は安心することができる。それを求める事が幸せに生きることに繋がる、、、ということなのだろうが、この抗えない運命によって決まっている「結果」、人は運命に逆らえない、、、この「運命」の部分
 第5部エピローグは「運命の奴隷」「誰が言ったか、、、我々は皆『運命』の奴隷で、変えることのできない運命に頭を垂れ隷属せざるを得ない、、、」主人公チームの何人かは死んでいく運命はもう決まっていることでも、その先に進むことでかえって一層苦しい死が待っていようとも、それでも彼らの取った行動には何か意味があるとし、彼らを「眠れる奴隷」と表現している。運命で決まっている結果が同じであっても、進む過程で未来に何かをもたらすかもしれない。
 今ある自分は全て「運命」で決まっていた結果。この先もたらされる「結果」も決まっているのかもしれないが、であれば尚更自分が後悔しないように前へ進もう。迎える結果が同じであっても進んできた道で他の成果が生まれるように努力しよう。
 私が歩んできた道は私1人ではたどり着けなかった道。失敗ばかりであったが、とても誇らしいのは私に関わってくれた彼らのおかげだと思っている。私にとってはこのマンガは偉大な哲学書なのだ。

(ジョジョ好きな方、勝手な考察謝っておきます)

次回、尊敬すべき団塊の世代「私の両親のこと」