面白かったあなたへ

昇格時、いただいた本たち

私がかつて大変お世話になった上司の方が退職するそうだ。先日連絡が来た。彼と仕事をしたのはたった1年であったがとても楽しかった思い出ばかり。彼は私より22歳も年下だがとても賢くユーモアがあって、わがままで(本当にわがままなの。人を振り回してばかり)自分の道をどんな困難でも優先して、でも配慮のある人だった。若者っぽく感覚についていけない部分もあったが芯が一本通っている人。随分振り回された気がするけど優しい人だったな。

彼が異動してきて、すぐに昇格試験の話をされた。私は昇格試験なんて受ける気なかったんだが、半ば強引に受けさせられたというか。。。彼は自分の考えを通すタイプだし振り回してわがままなんだがなんというか憎めない。

「次の試験受けてね。もう上司の許可とってあるからね」

「ええ、私まだ社員試験合格したばかりで、まだなんにも成し遂げられてません。」

「この半年でやるから大丈夫。、もう考えてあるから」

「。。。。」

もう後には引けずにやるしかなかったが、なんと彼のいう通りに物事は進んでいき、自分の管轄地域の代表として本部の研修に参加でき、試験に合格し(ペーパーテストと面接)半年で昇格した。

彼はプライベートを大事にするタイプなので、試験の日は「自分も東京で遊ぶー」と言って付いてきたし、タピオカと明治神宮に連れて行ってくれたし、なんともおかしな感じ。私は昭和生まれ。仕事に対する考えは、今ならコンプライアンスに違反するような働き方と働き方に対する考えを、気をつけているもののきっとまだしていて、しかし、世の中は、そうはいってもそんな考えがまだまだ是とされている。いい面も悪い面もあると思うが、彼はあんな感じでも(一見チャラい)賢く、何が大事なのかちゃんとわかっている人。仕事はといえば実際はあまり自分では行わず、通達の読み込みも甘いし、漏れも多い。在庫のスキルも高くなく、代行者任せであったが、本当に大事な部分、長として決断しないといけない部分、ここだけは間違えてはいけない部分をしっかり押さえることができる人であった。だからこそ、半年後、一年後のビジョンが見えており、達成すべきの本筋はブレない仕事の仕方をしていたのだろう、その時はわかってなかったが。

 その時の職場は人間関係が複雑で業務がそっちのおかげで進まず、育成も進まない。彼が異動するとき「本当に大変だったの」と大笑いしていた。が本当に大変だったろう。今でも解決できてないしね。彼はじっと話を聞いてあげていたな、スタッフの。私は仲良くしてもらっていたが、彼は気づいていた。私が割と一般的でない部分を持っているのを。そして彼も自分のマイノリティな部分を、悩み、受け止め生きてきたから、私を心配してくれていた。

「これ、丸で囲って。どのくらいの割合になる?ちょっとした心理テストなんだ。なるほど、そうか僕と一緒だね。やっぱりね。これって日本人の2割しかいないんだって。僕は前の職場にいた時、どうしても自分の考えを理解してもらえず、逃げるようにここに異動してきたけど、その時の上司がこれと同じような心理テストをしてくれた。その時に理解できたんだよ。『ああ、僕はやっぱり人と違うんだな。ならばわかってもらえなくても仕方ないな。でも2割の人と巡り会えた時、大きな仕事ができるかもしれない』って。僕はここで成果を残せたし、大変だったけど楽しかったのは性格は違っても基本の考えが理解できる人と一緒に働けたから。だから、この先、なにかあってもめげないで。巡り合うのは大変かもだけど、絶対2割の人に出会えるからね」

彼と、今後のキャリアについて面談したときにもらった言葉だ。勇気が出る言葉。私よりも22歳も年下だけど笑。彼は1年で本部勤務になり、自分のスキルを伸ばすために、退社し、カナダへ留学する。日本と違い、むしろ個性がないとやっていけない海外へ。語学も堪能だからきっと上手くやれるし、もう日本には帰ってこないかもしれないが。

私には、その時々で、影響力のある人々と出会える運命にある。母親がよく言っていたっけ

「お前のことは心配してないよ。人を見る目があるからね」

今、実感。そこだけには自信あるかもな。

彼は8月には行ってしまう。遊びに行ってこようかな。大阪まで。

泣き虫だった幼少期からいじめを克服するまで

近所の公園にて

幼稚園児から小学校卒業まで 

小さい時の私は人見知りだった。そしてやっぱりちょっと変わっていたようだ。病弱でいつも入院していた母の代わりに、父が家事と育児をこなしていた。そしてもうなくなった祖母が5kmはあろう道のりを歩いて私を見に来てくれた。 父が今でもいうが、幼稚園の記録簿や小学校の低学年までの先生の一言にはいつも「お友達の輪の中に入っていけません。おとなしすぎて心配です」と書かれていたらしい。当の本人といえば、実はこのころから無理して友達にならなくてもよいとか、自分の好きな遊びをしていたいとか、みんなの真似なんかしたくないとか、もうその頃から思っていた。今でもそうだけど、はやりものやみんながこぞって買うものとかに興味がない。そういう性格は小さい時だから余計に先生を不安にさせたのだろう。 近所の幼馴染も男の子ばかり。リカちゃん人形やバービー人形は持ったことがなかった。ミミズやカエルを追いかけ、小学校の時は男の子からカブトムシの幼虫をもらって、

朝から夕方まで幼虫から蛹に変わるまでをずーっと見ていたこともある。(わたしの子供たち、長女も長男も二人とも理系で長男も生物選択である。希望の大学もそっち。高2) 

 周りに合わせず、普通のおままごと遊びをしないせいもあって、低学年まではよくからかわれていた。よく泣きながら家に帰ったものだ。 

小学校4年生でクラス替えをした。

近所で、また同じクラスになった腐れ縁のMに

「Kと口きくなよ」と。「何でよ、それ言うこと聞かなきゃダメなの」と言い返したがもうすでに、新しいクラスメイトはKを無視していた。いじめの始まり。

この後6年生まで続く壮絶ないじめ。ほかのクラスを巻き込んで、部活動が停止になって(マーチングをやっていたが県代表は取れなかったものの、強かった。県代表は当時弘前市立文京小学校と城東小学校が全国上位の常連で、青森県は代表は2枠しかなかったのでこの2校を抜いて県代表をとるのは至難の業だった。特別枠で初の招待校として東北大会で演技)

教育委員会が間に入るようないじめ。

私は被害者も加害者も経験した。いじめられないためにいじめに参加した。情けない自分に向き合えない日々。悔しい。いじめられることがじゃない。立ち向かえない情けない自分に腹が立った。 6年生になっても続いた。このころになると男女の性別がはっきりとわかる成長期だ。いじめの質も変わる。限界だった。友達を誘って自分たちだけでも抗おうと決めた。仲間を集うとき、「あと少し待てば卒業だよ。目を付けられるの嫌だし、私はおとなしくしてる。誘わないで」と断ってきた子もたくさんいたが、とりあえず5人で逆らった。そしたら逆風が吹くものだ。誘わないでといった子たちも全員こっち側に。いじめる側が今度仲間割れをしだして、だれがボスかわからなくなった。情けない自分から、いじめを自ら克服した瞬間だった。 私の住んでいた地域は小学校7校が1校の中学校に集まる。自分の小学校、浪岡北小学校はその中でも1番大きく、一番荒れていた小学校だった。その中でも私のクラスが最悪だった。いじめのボスに逆らおうと声を出したのは私だった。。。 

そして中学へ