怖いものなしの中学から初めての挫折へ

 浪岡中学校 卒アルより

中学に入学した。

私は団塊ジュニア、中学の学年は320人。8クラスまであった。小学校の先生がどのように配置したのか、明らかに意図があったと思う。入学早々小学校のいじめのボスは見事に2番手だったやつにいじめられていた。実は2番手だったやつは私の近所の子で幼馴染。家庭的に恵まれておらず、このあたりの地域の人には相手にされていない家庭の子であった(あそこのうちのこと遊んではいけません、とよそのおうちでは言っていたらしい) 

 その2番手だったMが中学ではボスになった。しかしMはぜったい私には逆らわない。私に嫌われるのだけは避けたかったと思われる。理由は、先に書いた、そのような家庭であって、それでも私の父は受け入れてたからだ(私の父は地方公務員であったが、大学では法律を学んでいた。人間はすべて平等であるべきだし、幸せに生きる権利も等しく付与されている。この価値観がのち、私の価値観のベースになる。老若男女区別しない、男であっても女であっても、年上だろうが年下だろうが尊敬できる人は尊敬できる、できねぇやつはできねぇ、これがホットパンツの生き方) 

 そして、私の世代は先輩後輩が厳しい時代であったが、私はこういう正確な故、なぜ、先輩が偉いのか意味が分からない(今でもわからない)。というわけで目を付けられやすかったが2個上の先輩に、姉妹くらい一緒に育った幼馴染のお姉ちゃんがいる。彼女も学年では幅を利かせていたため、先輩からいじめられることもなかった。 中学の頃は私は成績が良かった。優等生ではなかったが、いじめをなくしたり、もとより正義感も責任感も強かったので先生の受けもよかった。

 怖いものがなかった。人生で一番性格が悪かった時。 

 中学3年の時、いるだけの生徒会でアンケートを実施した。一番多かったのは校則について。普通の生徒は生徒会の仕事なんて全然興味がないと思う。だが校則についてはものすごい反響だった。やる気のない私でもこれだけは何とかしたいと思い先生に相談した。特別委員会を設置することを認めてもらえた。クラスから校則見直し委員を一人選任し、会議。名目上の委員長は生徒会長であったが、実質は私が運営した。当時の生徒会の顧問は社会科の先生。

「先生、どうやったら校則って変えられるのか」

「お前、公民学んでるだろ?条例を見直してほしい時、リコール請求するとき、どうするんだよ?住民自治勉強してるだろ」

「有権者の1/3の署名を集めます。そして議会に提出します」(正解かどうかは忘れた、当時の私は先生にこう答えた)

「ここではせめて9割は集めろ。その前にどの校則を見直してほしいのか、改善すべきか。多くは変えられない。しっかり精査しろ。職員会議には俺が持って行ってやる」

この先生、見た目は超オタクみたいで根暗に見える。がしかし、しっかり本質を見ていて、それがわかるぶん本当に信頼できると感じられる人だった。先生は自分の友人のやっぱり教員仲間から他校の校則を集めてくれた。

 結果、即実施できるもの、来年度から実施するもの。改正案通りました。下の学年は感謝したことだろう。このあたりの地域では、一番に男子の坊主がなくなったのだから。これをきっかけに近隣の中学で、校則の見直しが進んだらしい。永澤(?漢字あってるかな笑笑)先生のおかげで、彼だったから、答えではなくヒントをくれたのだと思っている。「条例を変えたい時どうするんだよ」知識は身に付けたらどうするのか?習ったばかりの知識を知恵に変える方法を彼が教えてくれた。この先生と出会ってなければ、あきらめていたかもしれない。自分でやると決めてやり切った、この校則の見直しは今後のわたしの自信になった。

 もう一度言うが当時の私は成績が良かった。模擬テストで県でも上位、一番いい時は県で3位。難関校と言われていた弘前高校は定員360名。他の地域に青森高校、八戸高校と進学校があるがそもそも県で上位なのだから、誰もがわたしが弘前高校に合格すると思っていただろう。自分も思っていた。私立なんて受験せず、弘前高校一本のみ。

私は当時は怖いものがなかった。しかし受験は不合格。

みんなが高校生になったとき、私は高校生にはなれませんでした。

そして「中学浪人から大好きな人がいた高校時代」につづく

泣き虫だった幼少期からいじめを克服するまで

近所の公園にて

幼稚園児から小学校卒業まで 

小さい時の私は人見知りだった。そしてやっぱりちょっと変わっていたようだ。病弱でいつも入院していた母の代わりに、父が家事と育児をこなしていた。そしてもうなくなった祖母が5kmはあろう道のりを歩いて私を見に来てくれた。 父が今でもいうが、幼稚園の記録簿や小学校の低学年までの先生の一言にはいつも「お友達の輪の中に入っていけません。おとなしすぎて心配です」と書かれていたらしい。当の本人といえば、実はこのころから無理して友達にならなくてもよいとか、自分の好きな遊びをしていたいとか、みんなの真似なんかしたくないとか、もうその頃から思っていた。今でもそうだけど、はやりものやみんながこぞって買うものとかに興味がない。そういう性格は小さい時だから余計に先生を不安にさせたのだろう。 近所の幼馴染も男の子ばかり。リカちゃん人形やバービー人形は持ったことがなかった。ミミズやカエルを追いかけ、小学校の時は男の子からカブトムシの幼虫をもらって、

朝から夕方まで幼虫から蛹に変わるまでをずーっと見ていたこともある。(わたしの子供たち、長女も長男も二人とも理系で長男も生物選択である。希望の大学もそっち。高2) 

 周りに合わせず、普通のおままごと遊びをしないせいもあって、低学年まではよくからかわれていた。よく泣きながら家に帰ったものだ。 

小学校4年生でクラス替えをした。

近所で、また同じクラスになった腐れ縁のMに

「Kと口きくなよ」と。「何でよ、それ言うこと聞かなきゃダメなの」と言い返したがもうすでに、新しいクラスメイトはKを無視していた。いじめの始まり。

この後6年生まで続く壮絶ないじめ。ほかのクラスを巻き込んで、部活動が停止になって(マーチングをやっていたが県代表は取れなかったものの、強かった。県代表は当時弘前市立文京小学校と城東小学校が全国上位の常連で、青森県は代表は2枠しかなかったのでこの2校を抜いて県代表をとるのは至難の業だった。特別枠で初の招待校として東北大会で演技)

教育委員会が間に入るようないじめ。

私は被害者も加害者も経験した。いじめられないためにいじめに参加した。情けない自分に向き合えない日々。悔しい。いじめられることがじゃない。立ち向かえない情けない自分に腹が立った。 6年生になっても続いた。このころになると男女の性別がはっきりとわかる成長期だ。いじめの質も変わる。限界だった。友達を誘って自分たちだけでも抗おうと決めた。仲間を集うとき、「あと少し待てば卒業だよ。目を付けられるの嫌だし、私はおとなしくしてる。誘わないで」と断ってきた子もたくさんいたが、とりあえず5人で逆らった。そしたら逆風が吹くものだ。誘わないでといった子たちも全員こっち側に。いじめる側が今度仲間割れをしだして、だれがボスかわからなくなった。情けない自分から、いじめを自ら克服した瞬間だった。 私の住んでいた地域は小学校7校が1校の中学校に集まる。自分の小学校、浪岡北小学校はその中でも1番大きく、一番荒れていた小学校だった。その中でも私のクラスが最悪だった。いじめのボスに逆らおうと声を出したのは私だった。。。 

そして中学へ