私について②

(イメージ画像)

 淡い夢を見た。ちょっぴり悲しい夢。セピア色の夢。(好きな漫画のパロディ)

その日は何もする気がおきず、疲労のため、どうやら眠ってしまっていたらしい。

涙が溢れていた。

それは小学校の時仲良しだったクラスメイトが何か話しかけてる夢。最後の一番大事な部分が聞けず、目が覚めてしまった。彼女は高校卒業後、国家3種で外務省に就職した。ギリシャに行くよーって言って最低3年はギリシャだよっていって、その後会えていない。

どうしてるかな。一緒に沼地に行ってトノサマガエルや(青森出身なのでトノサマガエルはいる。いないのは仙台平野と関東平野)、ミズカマキリ、タイコウチ、その他いろいろな生き物とって遊んだよね。彼女の家には黒猫2匹いて、猫アレルギーの私でもかわいくて通い詰めていたっけ。

彼女に怒られている気がする。

「泣いたり喚いたり、容量が悪かったり、でも正直で、生き方が下手でも、やるって決めたことはやりきってたでしょ。カオリ(私の名前)が羨ましい。自由で、わがままでも許してもらえてるじゃん。」

「あれから成長できてる?◯◯◯◯◯◯、、、、」

ギリシャに行く前に会った時、言われた言葉。今なぜ夢に出てくるの。最後の部分がわからなかったよ。

 私はいつでも自信が持てず、ずっと何かに迷って、後悔して、一歩踏み出せず、グダグダしていて、毎日の生活も、仕事もそうだ、迷いを払拭するように、考える間を持たないためにがむしゃらだった。

 でもでもでも、、、

最近はとても楽しいことがいっぱいだ。新しい出会いや、出来事がたくさんあった。ただ、その出会った人たちの頑張りや可能性を見てると私が置いていかれてる気にもなってるのかもしれない。私は?

私らしくってなんだ。最近は考えるのも面倒になって何するのも面倒だ。

4年前に仕事のために別でアパートを借りてた頃、よく集まった職場の仲間。将来や未来のことを語り合いながら退勤後ご飯をよく食べたりした。一番若いやつは、この私たちとの出会いが転機になって海外に留学した。

「このままでも楽しい。高校の友達とかと一緒にいるのは楽しいし、このまま普通に結婚して、友達と呑んで、、でもいいと思っていた。でも自分の可能性ってまだまだあるし、初めてなんだ、こういうことを真剣に考えるの。時間が勿体無いと初めて思ました。」

もう1人も、先の未来のために転職した。そしてこの彼は

「生きていくための手段なら日本だとたくさんある。メキシコに留学していた頃は、生活がいかに大事かって考えさせられた。生命力が日本人とは違う。生きたいように生きないと後悔する。まだまだ知るべきことが無限にあるんだ、世界には」

動けていないのは私だけ。思い出せ。

面白かったあなたへ

昇格時、いただいた本たち

私がかつて大変お世話になった上司の方が退職するそうだ。先日連絡が来た。彼と仕事をしたのはたった1年であったがとても楽しかった思い出ばかり。彼は私より22歳も年下だがとても賢くユーモアがあって、わがままで(本当にわがままなの。人を振り回してばかり)自分の道をどんな困難でも優先して、でも配慮のある人だった。若者っぽく感覚についていけない部分もあったが芯が一本通っている人。随分振り回された気がするけど優しい人だったな。

彼が異動してきて、すぐに昇格試験の話をされた。私は昇格試験なんて受ける気なかったんだが、半ば強引に受けさせられたというか。。。彼は自分の考えを通すタイプだし振り回してわがままなんだがなんというか憎めない。

「次の試験受けてね。もう上司の許可とってあるからね」

「ええ、私まだ社員試験合格したばかりで、まだなんにも成し遂げられてません。」

「この半年でやるから大丈夫。、もう考えてあるから」

「。。。。」

もう後には引けずにやるしかなかったが、なんと彼のいう通りに物事は進んでいき、自分の管轄地域の代表として本部の研修に参加でき、試験に合格し(ペーパーテストと面接)半年で昇格した。

彼はプライベートを大事にするタイプなので、試験の日は「自分も東京で遊ぶー」と言って付いてきたし、タピオカと明治神宮に連れて行ってくれたし、なんともおかしな感じ。私は昭和生まれ。仕事に対する考えは、今ならコンプライアンスに違反するような働き方と働き方に対する考えを、気をつけているもののきっとまだしていて、しかし、世の中は、そうはいってもそんな考えがまだまだ是とされている。いい面も悪い面もあると思うが、彼はあんな感じでも(一見チャラい)賢く、何が大事なのかちゃんとわかっている人。仕事はといえば実際はあまり自分では行わず、通達の読み込みも甘いし、漏れも多い。在庫のスキルも高くなく、代行者任せであったが、本当に大事な部分、長として決断しないといけない部分、ここだけは間違えてはいけない部分をしっかり押さえることができる人であった。だからこそ、半年後、一年後のビジョンが見えており、達成すべきの本筋はブレない仕事の仕方をしていたのだろう、その時はわかってなかったが。

 その時の職場は人間関係が複雑で業務がそっちのおかげで進まず、育成も進まない。彼が異動するとき「本当に大変だったの」と大笑いしていた。が本当に大変だったろう。今でも解決できてないしね。彼はじっと話を聞いてあげていたな、スタッフの。私は仲良くしてもらっていたが、彼は気づいていた。私が割と一般的でない部分を持っているのを。そして彼も自分のマイノリティな部分を、悩み、受け止め生きてきたから、私を心配してくれていた。

「これ、丸で囲って。どのくらいの割合になる?ちょっとした心理テストなんだ。なるほど、そうか僕と一緒だね。やっぱりね。これって日本人の2割しかいないんだって。僕は前の職場にいた時、どうしても自分の考えを理解してもらえず、逃げるようにここに異動してきたけど、その時の上司がこれと同じような心理テストをしてくれた。その時に理解できたんだよ。『ああ、僕はやっぱり人と違うんだな。ならばわかってもらえなくても仕方ないな。でも2割の人と巡り会えた時、大きな仕事ができるかもしれない』って。僕はここで成果を残せたし、大変だったけど楽しかったのは性格は違っても基本の考えが理解できる人と一緒に働けたから。だから、この先、なにかあってもめげないで。巡り合うのは大変かもだけど、絶対2割の人に出会えるからね」

彼と、今後のキャリアについて面談したときにもらった言葉だ。勇気が出る言葉。私よりも22歳も年下だけど笑。彼は1年で本部勤務になり、自分のスキルを伸ばすために、退社し、カナダへ留学する。日本と違い、むしろ個性がないとやっていけない海外へ。語学も堪能だからきっと上手くやれるし、もう日本には帰ってこないかもしれないが。

私には、その時々で、影響力のある人々と出会える運命にある。母親がよく言っていたっけ

「お前のことは心配してないよ。人を見る目があるからね」

今、実感。そこだけには自信あるかもな。

彼は8月には行ってしまう。遊びに行ってこようかな。大阪まで。

平成の大合併〜出身地がなくなるということ〜 ②

2022.1 年明けまだ雪深い実家前の公園にて

ⅱ.青森市合併後。浪岡地区の今。そして。

 現在は、当時の活気があった街とはかけ離れてしまった。元々弘前市と青森市を結ぶ国道7号線沿いにあり、JR奥羽線が中央を走り、土地が安いこともあって、私がいた頃は両市のベッドタウンとして、注目されていた最中であった。今は見る影もない。青森市街から遥か離れている浪岡地区に手を入れている余裕も青森市にすらないだろう。あの頃、人口が30万に足りない青森市は浪岡町の2万の人口がほしかただけだ。浪岡町でなくてもよかった。当初は浪岡ではなく他の町村との合併を考えていた節があるがそこの町村が合併を拒んだらしい話がある。賢い選択だ。浪岡と合併したばかりの頃は人口30万に達し念願の中核都市になった訳だが、今現在の青森市は人口27万ちょっとで減少傾向にある。

私の父は合併反対派の人間。当時の総務課長。実際に行政を握るNo.2である(当時、共同通信社を賑わしていた張本人)。そんな父の元、だから私も合併反対なんだろうと言われれば影響がないわけではない。しかし、合併後どんな様になるかは容易に想像がつく。あの当時まだ具体的ではなかった頃、浪岡町民っていう聞こえより、県庁所在地で、自分が青森市民であると言いたかっただけ。実際、町民に問うても、「合併したら何がダメなの?青森市出身ですって言える方がかっこいいじゃない」と言ってる人がどれだけいたことか。他、青森市との合併に協力したら、青森の仕事回してくれるらしい(土建関係)とか、そんな噂がどれだけ聞こえてきたか。そんなわけないであろう。仕事もあるかもしれないが、ライバルも増える。努力するなら別だが、甘い汁だけ吸えるわけなかろう。

 そして、結果、浪岡地区には手入れをせず、浪岡でやれた仕事は青森の会社にとられ、倒産、インフラはボロボロ、大きな病院は一階建ての診療所に。帰省するたびに、道路が穴だらけ。車で帰るので、リアルに寂れた感が身に染みる。浪岡中学校は水泳部が強く、私の同級生は千葉すずと一緒にアジア大会でメドレーリレーを泳いだ子もいるくらい強い部で(その子の他にも全国クラスが多数いる)、プールは50mプール。今は水も入れてもらえず、体育の授業ではスイミングに行くらしい。アホらしい。本当に。こんなに変わるのだ。青森市と弘前市の間にある地区が過疎の村のようになってしまうのだ。普通の地域であれば考えられないだろう。青森自体の行政力もあるだろうが、あの時の安易な民意で浪岡町は死んでしまったと思っている。でも合併が決まってからはこの末路にとっくに想像がついていた。

 大学の講義では住民自治は素晴らしい制度であると学ぶが、もっていけるのは議会まで。そこで否決されたら終わり。結局民意は届かない。

 だからこそ、有権者の一票は重いんだ。そもそも合併推進派の町長を当選させたのは浪岡町民。後になって合併は反対だって言ったって無駄。自分達のもっている一票がどれだけ重いのか心して有権者であることを自覚すべきだし、しっかり勉強してくれ。子供たちよ。

 私が地域貢献したい理由はここにありました。栃木県は東京から近い。でも東京と違い、人間らしい生活もできる(語弊があったらすみません)。自然豊かだし、いい景観の写真が撮れるスポットもたくさんある。そして目指せる地方分権がそこにある。

 行政だけではなく、経済も併せて、これからは地方から中央に向かっていく時代。日本経済をスポーツ振興で盛り立て、まだまだ伸び代がわからないbリーグが先導してほしい。そして、大手のスポンサーがついてなくても、地域のブースターさんが支えている宇都宮ブレックスが鍵になる。まさに地方から中央に向かうベースがもうできている。今はまだまだ大手のスポンサーがついているところが有利な気がするが、これから先はどうなるかわからない。そうなった時、元々地域ブースターさんで支えている宇都宮ブレックスは壊れない。

 なべさんは、宇都宮に貢献したいと言ってくれた。私は地元にも、今住んでいるこの地にも何もできてないが、そう言ってくれたなべさんを応援することはできる。だからとても尊敬しているのです。私にはなべさんについて行く理由がある。

 私に、何ができるのか。何もできてないし、これから先もどうすべきかわからない。目標があってもどう動いていいかわからず、毎日もがきながら生きています。残りの人生半分過ぎました。

 さてどうする。模索する人生はまだまだ続くのです、たぶんね。

平成の大合併〜出身地がなくなるということ〜①

2022.1 年明けまだ雪深い実家前の公園にて

ⅰ.浪岡町とは。合併に至る経緯。

*私見を含みます。また振り返っての文章なので、間違いがあったらすみません。

2005.4.1 浪岡町は青森市と合併し消滅した。

今は青森県青森市になってしまったが、元は青森県南津軽郡浪岡町であった。南津軽郡に属していたので当然のように学区は中弘南黒地区(中津軽郡、弘前市、南津軽郡、黒石市をまとめた地区)。なので当たり前のように弘前の高校を選び、大学も地元の国立を選ぶなら普通にJRで通いなれた感じだからまあいっかくらいの感覚だ。

 この頃は浪岡町に終焉が来るとは思っていなかった。

 中学になると社会科で地理や歴史、公民を勉強するが、地図帳を見るのが好きであったし、人口密度やその街の産業など調べるのが好きだった。自分の住んでいる浪岡町の特性や、他と比べての強み、また弱いところなど、自分なりに分析して父と話したりしたものだ(父親は浪岡町の職員であった)。小学校6年の時の夏休みの自由研究で、浪岡町の城跡、浪岡城について全校生徒の前で発表したりなど思い入れがある。りんごの生産量は弘前市が全国一位であるが町村で見るなら浪岡町が一位であった(その当時)

*浪岡城とは

築城主 北畠顕義(始祖 北畠親房 後醍醐天皇側近「後の三房」の筆頭。『神皇正統記』が有名)途中の系図は諸説あり。1460年代に築城。1578年大浦為信(のちの津軽為信 弘前城築城主)により落城。参照資料Wikipedia

合併問題が起こっている頃、ちょうど長男の出産のために里帰りしていた時だった。当時の浪岡町役場の町長が合併推進派であったこと、青森県知事、青森市長、代議士と懇意であったため、今思えばこの町長が当選したのは合併を進めるためだったとしか思えない。しかしながら、どんな選挙活動をされていようが、一票を投じるのは浪岡町の有権者である。結局、町民の意思(民意)なのであろう。そう思うしかない、今となっては。しかし、いよいよ具体的に決まりだすにつれて、町民は気づき始めた。新しく合併反対派の町長にとって変わっても、合併が議会で可決してからでは遅かった。合併の是非を問うための住民投票を行うも、反対派の署名がおよそ9割であっても、県で賛成多数で議決、合併決定書が出された後では覆るはずもなかった。県に出される前から浪岡町の町民は署名活動を行い民意を主張すべく議会に提出するも2回とも否決。そもそも合併推進派の議員多数の中、通る訳などなかった。

 まだ大学生だった1999年当時は、政府主導で地方分権を推進する観点から合併を促す動きではあったが、浪岡町は単独で行く方針を貫いているはずだったし、まさか合併になるとは。編入合併という形になるので、2005.4.1をもって浪岡町の法人格は消滅した。

 合併自体が悪いと言っているのではない。地方分権を推し進め、国家の機能を分担していくべきであるし、その考え方からも、あの当時、合併を促す方針は時代背景としては間違ってない。(当時は規制緩和、金融ビックバン、郵政民営化、第3次ベンチャーブームの時代。国家の機能が成熟し、機能を縮減すべく、一部は地方や民間などに委ねていく流れ。転換期)

 しかし、地方の在り方を今一度考えるということはいい。しかし、浪岡町にとって、青森市との合併は一番避けなくてはいけない合併の形である。このまま単独で行くか、せめて近隣の町村と合併するか、山一つ超えた青森市と合併するなど、考えたこともなかった。浪岡町は地理的には青森市と弘前市の間に位置する。弘前市と浪岡町の間にはいくつか南津軽郡の町村が間にあって、弘前市との合併はまずない。浪岡町にとって一番いいのは単独で行くこと。青森市とは隣り合っているが実は山一つ挟んでいて、浪岡町から青森市街に行くにはなかなかの距離がある(冬場は山を越えるのに道路が凍結して、地元民でもなかなかしんどい)

町民にとって、一番あってはならない合併が実現してしまった。

次回へ続く

ⅱ.青森市合併後。浪岡地区の今。そして。

 

お世話になりました

 (公開日 2022.3.1)

この3/1からわたしは職場が変わります。今の職場にバイト時代からも合わせて、かれこれ何年いたかなぁ15年くらいいたのかもしれない。いいことも悪いことも、人間関係でもいろいろあったし、出来の悪い私なのに、同僚たちには迷惑かけっぱなしだったと思います。自分のことばっかり主張してさ、こんなに頑張ってるのに。どうしてどうして。私ばっかり頑張ってるって思ってた時期あったかも。思えば本当にわがままだったし、好き勝手に言いたいことばっかり言ってたと思うよ。それに気づいたのは代行業務に携わるようになってから。自分自身のスキルがあがって、いろいろできるようになって、店舗を回すのにスタッフにどういう風に働いて貰えばいいか考え、どうやったら効率よく回せるのか、そういう目線で見た時、初めて過去の自分と向き合えるんだよね。あの時の私は、こっちの立場で見れてなかったなぁとか、それなのに好き勝手いって周りを振り回してんだなぁって。当時の店長と代行者、相談相手には本当に申し訳ない気持ちでいっぱい。
 今、異動がリアルになってつくづく思います。なぜ自分が社員を目指したのか。何を考え、目標にし、達成させたかったか。そのために必死でやってきてそういうふうにやってきたら、昇格もついてきて、、、でも、本当の私の目標はまだ達成できていません。毎日毎日運営していくのにやっとで、目指す運営も理想に掲げてた代行者像にもなれていない、不甲斐ない自分。
もっとできることがあっただろう。もっと上手に時間使えただろう。この何年間、何をしてきただろう。みんなのために何をしてあげられたのか。

後悔しかない。
 

 人生もきっと一緒。このブログで後悔しないように、なんて私よく書いてるけど、自分が全然できてないね。正直、後悔しない人生なんて嘘っぱちだし、後悔があるから成長もあるとは思うよ。
でも、店舗における私の働きは、この長い時間はもったいなかったし、この間にやめていったスタッフにも申し訳が立たない。人の時間にも関わることだったのだから。
新天地においても、新しい目標は決まってます。達成できるまで、頑張るしかないし、もちろん私だけでは達成できるわけなく、全員に目標に向けて協力を仰ぎ、導くのが私の仕事だ。また、スタッフのみんなに迷惑をかけ、感情を露わにし、揉め事になったり、泣いたり、凹んだり、、、しながら毎日を繰り返すのだろう。
どんな状況においても環境を受け入れ、成長していけるように、せめて自分にはいい聞かせよう。あらゆる種、生物の世界でも環境に適応できない種は滅びゆく。受け入れ、成長するものは進化を遂げるではないか。


 こういうふうに振り返り、決意を新たに進もうと思えるのはお世話になった店舗のおかげ。みんなありがとう。私はわがままだったよね。付き合ってくれてありがとう。感謝の一言だよ。
そして、これから先にどのような未来があるのか、、、とても楽しみにして、前へ進んでいこうと思います。

大学受験失敗から予備校生時代

大人になってもう一度世界史を勉強しようと思った

 大学受験の真っ只中にあろうことか好きな人ができておかげさまで見事に受験は失敗した。私はあっちもこっちもうまくやっていける方ではないので、あの頃勉強が手につかなかった。その理由とは別に、私は団塊ジュニアなので人口が多い世代で、さらに上の学年から雪だるま式に浪人生も増えていってというのもあり、私の周りの友達は大体浪人した(笑)

 みんなそれぞれの場所で浪人生活を送り、私は地元の予備校へ通った。中浪時代にお世話になった予備校へ。前のブログでも書いたけど、3バカトリオでまた通った。
 浪人生活って結構しんどい。中浪時代とは違って高校卒業って立派な大人の仲間入りの歳。社会人でもなく、学生でもなく今でいうニートなわけである。自分自身に負けそうになる。だからといって勉強に集中できるかといえば意外にそうでもない。高校時代に好きだった人とはまだ連絡をとっていたし、でも彼は東京で浪人生活を送っていたので会えないし、遊べないし、今と違って家電(いえでん)でのやり取りだからまめに連絡も取れない。まだまだ未練はあって、やつも私が未練あること知ってて微妙な距離を保ちつつ切れないようにヤツは連絡をくれた。

 でも毎日会える人に目移りするわけですね。浪人生活も終盤戦、という時に、同じ予備校のとあるシャイな男子が(でも模試でマークなら全国3位、記述なら全国1位という予備校のエース)が朝、通う駅で待ち伏せしてくれて約束して、帰りちょっとしたプレゼントをいただいたのです。しかもその日はイブ。
 クリスマスイブって付き合ってる人がいる時もいろんな理由からロマンティックな夜を過ごしたことないし、自分自身、あんまりイベントごとってどうでもいいんだけど、この時のイブが一番嬉しくって思い出に残るイブだ。彼は予備校のエースで、実は1っこ上の人。話もたまにで、あいさつ程度だと思っていたんだけど、私は。でもお互いにその予備校長いから先生を絡めての交流はあったんだけどね。彼が弘前大学受けるっていうからじゃあ弘大でいいかってう安直な考えで大学を選んだんだけど、彼は長崎大学の医学部に行ってしまった、結果的には。
 というわけでろくに勉強もしない浪人生活も終わり大学生になるわけだが。予備校に貢献してた?私はバイトをもらえた。当時の私は、青森県から出ることを考えていなかったし、青森県は知ってのとおりなかなか就職も難しいところ。手堅く公務員になろうと思って、大学の講義も法律関係の選択が多くなっていた(私は文系で経済学科、経済学なら専門でできるので、公務員試験に必要なのは他ほぼ法律関係)。

 ある時、当時の予備校の物理の先生と、まあ生き方について話す機会があった。予備校の先生たちも若く、20代前半から30代前半までで、だからご飯に行ったり、飲みに行ったり仲良くさせてもらっていた。 話の過程で、多分私は言ったのだろう、

「結婚して子供は欲しい。でも夫婦がうまくいかなくなった時、生活が不安で離婚できないと情けないことを言うのは嫌だ。それが理由で結婚生活を我慢するのも間違ってる。だったらしっかりした就職をしないといけない、なら公務員が一番だと思ってる」

「お前さぁ、今からそんなことガチガチに考えてどうすんだよ。人生は思ったようにいかないし、予測できないことばかりだし、予測できるような人生なんて逆に考えたらつまんねーだろ」
私も若かったんだねー、そして子供だった。
 彼は横浜出身。私に言葉の意味を教えるべく、自分がなぜ今この地、弘前市にいるのか語ってくれた。横国(横浜国立大学)の工学部を出て1級建築士になった彼は売れっ子だったらしい。独立開業し、目まぐるしく忙しい日々を過ごしたのだそうだ。そんな中、奥さんに言われてしまった「あなた誰?人間の顔してないよ」って。改めて自分の顔を鏡に写した時初めて自分がおかしくなっていることに気づいた、俺は誰だった?って。

 そして、建築事務所をたたんだ。自分探しをする旅に出た。全国各地に散らばった学生時代の友達に会いにいった。自分を取り戻そうと思って。その途中で弘前市が気に入り、移住することになったんだそうだ。奥さんもすごい人だなあって感心もしたし、今、私の言葉でここで文章にしても説得力に欠けるかもだけれども、彼の言葉には経験からくる説得力があって、その時から私は考えを少し変えました。 

 いろいろ先を考え、前始末をするのは正しいし、必要だ。でも、何が起きるかなんて本当のところ実は予測できるかといえばある程度のこと。何が起こるかわかったもんじゃない。ならその時、対応できる力が重要だった。 対応力って?性格的なものもあるかも知れないけど、実は教養が一番大事だ。いろんな有事に対応するためには多岐にわたる知識とそれを知恵に変える力が必要だ。これから学ぶみなさん、また大人の皆さんも、やっぱり学びは大事なのです。
 勉強勉強ってうるせーなって思うかもしれないこと書いてるけど、受験のために勉強するわけではない。人がこの地球上にどうやって生かされているかも一般教養から学び取れるのです。「人間万事塞翁が馬」とは言うけれど、知識を蓄え、ぜひ今後の人生を色んな意味で楽しんでいきたいですね。

。。。。。予測不能だからこその楽しみ方

中学浪人〜大好きな人がいた高校時代

高2 1992/7

高校受験を失敗して浪人することになった。

私は団塊ジュニアだし人口も多く、それに青森県は、当時は私立受験は1回、県立は1回で計2回しか受験のチャンスがないので浪人する人も他県に比べたらいる方だ(と、大人になって知った。)

 中学校の先生に相談し、何校かある中から予備校を決めた。通い始めたら、中学1年の時同じクラスだった男子2人もそこで浪人するらしく、元々中1の時は話す中だったので(K也は定期テストを競争したり、アイスを賭けたりする仲。もう1人のN樹は席が隣だった。誰からも愛され、笑ってごまかすようないつもニコニコしてるやつ。マコみたい笑)自然に3人で通うようになった。楽しかったなぁ。3人でいる時、私服だったし、いろいろ悪いことも3人でしたなぁ。制服じゃないから補導されないし。辛いと思われがちだが、確かにもう1年、中学の勉強するのはダルいんだが、今振り返ると楽しかった。この後、高校も同じで、大学受験に失敗した時も3人でかつての同じ予備校へ通う羽目になり、その時、

「あなたたちはどうしてまた3人でここに戻ってくるの?3年前あんなに勉強したでしょ」

と当時の予備校の先生にいわれた始末。ハリーとロンとハーマイオニーみたい。全然恋愛はなかった3人だけども。彼らがいたから、勉強もしたし、負けたくなかったし、楽しかったし、言いたいこと言い合えたし。今では年賀状のやり取りしかないけど。

 なんやかんや3人とも無事弘前高校に合格。高校の準備など、やはり彼らは良い相談相手になった。不安もなく高校に通い始めた。

前のブログで、中学時代は怖いものがなく一番性格が悪かったと書いたが、高校に通うときは心を改めようと思った。一つ年上で入学するので、周りの人に先輩扱い、特別扱いされるのは避けたかった。同じ同級生として接して欲しかった。かっこよく見せたいとか馬鹿にされたくないとか言う人もいると思うが、私の望みは何よりみんなと同じ歳であるように過ごすこと。

だから自分を変えたんだ。そうしないとダメだと思った。

今までの、人を馬鹿にするような態度を改め、自分がアホになろうと決めた。実際は受験に失敗してるのだから、普通に弘前高校に入ってくる人たちよりアホなわけだし。これ事実。

 写真は高校2年生のクラスメイトと。弘高祭のときなはず。私の隣に写ってる女子は1年の時も一緒。最初の入学式、ドキドキしながら良いクラスメイトに出会えるかとか勉強ついていけなかったらどうしようとか思って待ってた時、彼女は入学式の列、席につく前、私に話しかけながら椅子につまづいて転んだ。最初に話し、友達になってくれた人。彼女とは高校2年の時もクラスが一緒で仲が良かったが、1年を終えて、2年のクラスが発表になる前、2人で、S先生のクラスになるんじゃないかと話したっけ。実際、同じクラスになり、担任はS先生だった(厳しい英語の先生だった)

なんというか、ジョジョ考察で書いた運命論とはちょっと違うんだけども、縁がある人との出会いというのは最初の出会い方も記憶に残っている。ある芸能人が結婚報告の時、ビビビ婚って言ったことあながち間違ってないと私は感じる。

似たようなエピソードがある。

 入学後、程なくして目にした男子、態度や見た目が嫌いだった。悪目立ちし、どうやら男子の間では一目置かれてるのかもしれないが私は彼から漂うオーラが嫌いだった。他のクラスだし、まあ友達でもないので関係ないので私が見なければ良いだけのこと。実際彼は私のことなど知らないわけだし、今後関わることのない人のはずだった。

2年の時同じクラスになった。嫌だと思うからダメなんだと、言い聞かせて、でも話したら面白い人だった。2年の時はN樹も同じクラスで、席も隣で、N樹は誰からも愛されキャラだったので、男子には人気があったんじゃないかな。彼の周りは、今で言う陽キャも陰キャも集まる感じで、私の苦手なやつももれなくN樹をからかっていた。(要するにN樹のおかげで私も2年のクラスに馴染むのが早かった)。とても楽しいクラスだった。

 3年の時、苦手だった彼とまた同じクラスになった。3年の時はかなり仲良くなった。(2年の時はクラスメイトくらいだったような)。あろうことか本当に仲良くなった。彼は実はモテ男であったらしい。歴代の彼女が何人いたかは私は詳しく知らないし、聞いてもないけど。

一緒にいる時間も電話で話す時間も多くなった。彼には彼女がいた。私は知ってて好きになってしまっていたらしい。気づくのに時間がかかった。

最初の印象が最悪だったやつなのに。

ある出来事がきっかけで自分の気持ちに気づいたのは大学受験間近の頃。なんか騙されたような、嫌いだった相手なのに勝ち逃げされてしまったような悔しさが当時は感じていたかな。なんの意地を張ってたのか、高校卒業するときも自分の気持ちを伝えることをしなかったけども(まあ、彼は私の気持ちは分かってたはず。私もバレてるの承知でお互いやりとりを繰り返していた)。

彼は東京の大学に行くとわかっていたし、私は正直どうなるかわからなかったし、告白したとて仮にうまくいっても、恋愛下手な私は彼と付き合っていける自信もなかったから。

 結局、高校卒業しても何年かはモヤッとしたままでいたね。

(これ、高校時代の同級生が目にするかわからないけど、もう時効ですね)

 今だから言えるけど、私は恋愛って漫画やドラマの世界だって思ってて、周りの人たちのも見てきたけど、なんだか他人事で、私にはそういう恋愛 は一生来ないと思っていた。ここでは書けないけど、この3年生の時のやりとりは私にとっては実にドラマチックで、現実にはドラマ以上にドラマチックなことがあるとわからしめた出来事。

どこか冷めてて、クールな私でもこんなに感情的になるほど人を好きになることってできるんだなって、初めて自分の知らない自分がわかった出来事。これだけでもすごいことだと思う。知らない自分が他人によって知ることができたんだもの。幸せなことでしょ。

 私は後悔している。あの時自分の気持ちはちゃんと伝えるべきだったと。付き合えるとか付き合えないとかでなく、恋愛だけでなく、自分の気持ちは相手に伝えないと後悔する。

そして、感情を表に出すことも必要だとわかった。クールなフリするのはやめた。ちゃんと相手と向き合うために、感情も気持ちも吐き出すことはしよう。

 恋愛において、相手がいる方を好きになったら告白できないじゃんって、好きな人の好きな人を傷つけるかもしれないっていう人いるけど、先に進むかどうかは本人次第。それに、気持ちを伝えないことで相手を傷つけることもある。関わる人たちのこと本当に考えるならちゃんと正しく伝えるべきだ。誰も傷つけたことない人なんてこの世にいないし、逆に、傷つけたくないからっていう人は傲慢だと思うよ。

(もちろん誠意がないこととか言わなくてもいいことはあるが)

 だから、この時から私は自分の気持ちに正直になろうと決めた。腹に隠すのはやめた。迷うのもやめた。

1度きりの人生。みなさんも後悔しないように。

次回 「予備校で出会った先生の言葉」編

かな

両親から学んだこと

 私の両親はいわゆる団塊の世代。父が昭和22年、母は昭和23年生まれだ。その当時の話は歴史の教科書で習うか、父親から聞いている話くらいで実際の生活は想像がつかない。ただ、今の日本の礎を築いたことは間違いなく、そこは尊敬すべきだと思ってるし、今生かされている私たちは当たり前とおもわず邁進するべきだとも思っている。高度成長期を支えた重要な働き手であったわけだし、経済成長や文化的な成長(例えばファッション、娯楽関係など)もこの世代が基礎を作ってくれた。

  私は青森県出身。いまと違い、父親の時代は中央に住んでいる人たちよりも地方人はやはり貧しく、大学に行く人の割合も低い。父の兄弟である叔父などは中学を卒業して集団就職の夜行列車に乗っている。父親の生まれた家は大学に行けるような裕福な家ではなく、自分は成績が良かった故、工業高校の機械科へ進み、エンジニアになりたかったと言っていた。(当時は2次産業が盛んな時代、富士通へ就職したかったんだと話してくれた)。夢は叶わなかったが。父は高校2年生の時、結核になった。1年休学せざるをえなくなった。4年かかって高校を卒業したものの普通の就職には叶わず、自宅で療養しながら長男の世話になってる自分が情けなかったと当時を振り返っている。次男であるから、しっかり就職して、家を出るつもりでいたのに、情けないと。

 自宅で療養しながら、浪岡町役場の試験を受けて就職。地方公務員になった。仕事をしていくうちに畑違いの内容に、これではいけないと、法律を学びたいと当時の上司(町長)に直談判に行った。(通信教育で大学で学ぶには夏休みなどにスクーリングがあり、どうしてもまとめて休みをもらわなくてはならない)当時のこの町長も素晴らしい人だと思う。許していただき、大学の通信教育で法律を学ぶことになった。当時はもう結婚していて、母も家計をやりくりするのに大変だったろう。月給は2万円だったと聞いている(今との物価の差にビックリ)。工業高校出身であったので、一般教養を学ぶには大変だったと思う。どうしても普通科の人たちより学んでいないことも多いだろうし。おまけに、スクーリングの一ヶ月の下宿の間、母は東京で腹痛のために手術をする羽目になった。下宿先のおかみさんにはお世話になったんだと両親は懐かしむ。(母は私たち姉弟を産む前、東京で卵巣嚢腫の手術をし、卵巣の3/4を失った)

 それでも4年で中央大学法学部を卒業。立派な卒業証書を見せてもらったことがある。私が高校受験を失敗し、他の人より遅れて高校生になった時も(実は大学受験も失敗しているが)父からもらった言葉は、

「普通の人が進む普通の道がいいとは限らない。いろんな道を歩むからこそ他の人より気付けることもある」

 父のことばは薄っぺらな言葉ではなく、説得力があるのは実体験から。だから私は受験に落ちた時、みんなと一緒に高校生になれなかった時も素直に前に進めたのだと思う。父の言葉は私を慰める言葉では決してないからだ。ただの慰めの言葉ほど人を傷つける言葉はない。父は法律を学んだ、なにを学んだか。人間の生まれ持っている権利についても私にはよく話してくれた。当時、昭和世代はまだまだ父性制度が残っていた時代。その時代にあっても男が偉い時代ではないと、年齢には関係なく実力で評価されなければならないと語ってくれた。私が物心ついた時にはもうこの考えが身に染みていた。(私は昭和49年6月生まれ、団塊ジュニアである)ガチガチの年功序列の時代にあって、その言葉を堂々と言うだけの器があり、私は父を尊敬していた。

 一方で母は私には、

「パパの言うことは正しい。でも、世間はまだそうではないから、お前は女だからね。可愛くしないと、損をするよ。仮に男よりも実力があっても、女を認めてくれる時代ではないから上手な生き方をしなさい」と。

 でも実際は間違ってない。正直、未だ日本は性別関係なく評価されるようになってない。公務員の社会でも、市役所や県庁でもどのくらいの割合で女性の部長がいるのか。正しく評価されて女性の割合が少ないのか。実際はどうなんだろうと今でも考える。

 母にはこう言ってもらったんだが、私はそれでも自分を偽ることができず、可愛げのない人生を送っている。可愛く、媚を売る生き方も否定はしない。私は私の生き方をする。私の本当を見てくれる人が絶対いると思っているし、誰かに認められなくても、好きな人に嫌われても、要領が悪いと言われても、最後死ぬ時自分が自信を持って自分を生きることができたと言って人生を終えたい。 

 母は父と違って勉強が嫌いなタイプでまるでできない人。でも可愛くすることが大好きで洋服も大好きな人だ。

「お金を積めば誰だってそれなりに、身を飾ることはできる。それはオシャレじゃないと思う。限られた予算の中で、どれだけのおしゃれができるかってことだとママは思うよ」

って私は教わってきた。今でもそれは同感。そこがセンスが表れるとこだし、人と差をつけるポイントだ。私のお金やものの価値観はそこからきている。(私は物作りもリメイクも大好き)

 父の人間の権利に関する学びは、同時に他人も同様に生きる権利のあることを示し、このことは他人の価値観も認めないといけないと教えてくれた。母のおしゃれに関する教えもそうだ。ものの価値観についての私の基礎基本は両親の、まるで違う内容な感じがするが、私のベースになっている。

 賢くかっこいいパパと、かわいいママ(2人とも若い時の話)は私の自慢であるが、両親はタイプがまるで違うので喧嘩も絶えなかった。6つ下の弟も気が強く、わがままだ。うちの家族は4者4様。でもみんなそれぞれ相手の意見は尊重することを知っているので、よく話し、討論をし、騒がしい家族であった。

 年明け、母は大きい手術が待っている。コロナの影響で付き添いも叶わないけど。

みんな長生きしますように。

次回、父が勤めた浪岡町役場の最後、

「平成の大合併、浪岡町の最後。退職目前にして、どう対抗したか。またその思い」編

地方や出身地がなくなること。その思い。私が宇都宮BREXを応援する理由、なべちゃんのオンラインサロンに入会した理由

実は私の強い思い、目的がそこにはありました。

全て繋がって行きます。書き終えたら飽きずに読んでほしいです。是非是非

優等生でありたい?いい人ってどんな人?

中学の時吹奏楽部で吹いていたもの

 そういえば思い出した事がある。

 昨夜、久しぶりに絵を描きたくなったので画材を漁ってた時だ。絵は得意というほどではないが描くのは好きだった。中学に上がる時の春休み、絵の課題が出た。面倒だったので自室から家の前の公園の風景を適当に仕上げた。 

 入学して初めての美術の時間、先生が一枚づつ評価していくのだ。入学してまだ間も無く、他の小学校での美術のレベルなどわからないし恥ずかしく、嫌だったのを覚えている。私のクラスには街の中心部にある小学校からきた優等生だと有名なYさんがいた。彼女はとても綺麗で、地元の地主の子でお金持ち。運動神経も良く、色白で目が大きくて髪の毛がサラサラで男子の注目の的。彼女の絵が先生から評価される時、先生は無言だった。でもとても素晴らしい絵で私はこんなの中1で描けんのかって。私の小学校は荒れてたし、やっぱり優等生小学校は違うなあと思ったのを覚えている(かつて街の中心部に浪岡小学校があり児童数が増えたため、北小と南小に分かれた。北小はヤクザ学校、南小学校は優等生の集団だと比較された。私はヤクザ学校出身)しばらくして私の絵の番がきた。先生はいろいろ評価をくれ、最後に

「お前これどのくらいで仕上げた」

「すみません、1時間半くらいです(適当に描いたのがバレたと思った)」しかし、評価は高かった。これそのくらいで仕上げるのは見込みがあるなぁ。となぜだ?Yさんの絵は素晴らしいと思ったのに。

 私はその時知らなかった。あの絵はミレーの『落ち穂拾い』のパクリであった。クラスのみんなは知識がなくても美術の先生は騙されるわけなかろう。先生の彼女に対する信頼はあの時一気に無くしてしまったに違いない。
 私は髪の毛も癖っ毛で女の子らしくもないし、性格がまた言いたい放題な方だった。授業中でもわからないことはわからないと言い、男子から

「だから何回言えばいいんだよ、こうだって言ったろ」

「だってさ、こういう場合は今のだと当てはまらないじゃん」

など、私の周りが先生も含め楽しそうだったのが気に入らなかったのだろう。 YさんとYさんと連んでいたRちゃんにはよく陰口を叩かれた。この2人、優等生だった。自分以外の人が中心にいるのが気に食わない。でも今思う。お金持ちの子だし、チヤホヤされてきたんだろう。親が子を褒めて育てるのは間違ってない。ただ間違った褒め方をすると、自分の本質を見失う。わからないまま大人になる。Yさんは偽物だった。落ち穂拾いのパクリに見るように。その後どんどん彼女は落ちていき、最後の吹奏楽コンクールの3年の時出られなかった。私の中学校はBクラスで出場。Bクラスの定員は30名。3年の部員は35人だった。お金持ちだからマイ楽器も使っていたが部活に臨む姿勢がいい加減だった。そういう態度をとることが目一杯の虚勢だったのかもしれない。

 優等生であろうとする人に本物の優等生はいないと前言ったが、実はYさんと連んでいたRちゃんもそうだ。彼女の方は実は近所で幼馴染。ただ小学校の頃クラスは違ったので大きないじめの問題には優等生であるが故にのらりくらりと我関せずを通していた。

 よっぽど私のことが気に入らないのか、高校生になっても「去年と同じコート着てるの?」「それママチャリじゃん」(この時使用していたママチャリにはちょっとしたエピソードがある。後ほど『高校編、お金の価値観について』で)など。高校違うとこ行ったのに、私のこと嫌いなら構わなきゃいいのに、と思いながら。彼女には幼稚園の頃、白ツメ草で編んだ輪っかを「なにこんなもの」と言って足で踏み躙られたことも、、、ここまで聞くとすごい性格悪い感じに思うだろうが、実はRちゃんは同級生にも先生にも保護者にもすこぶる評判がいい。私のことが嫌いであっても、すごくいい人であれば人が作ったものを踏み躙る行為や、両親の建てた家を(私の実家の建物)を「相変わらず変わり映えしないね。私のうちは建て替えたよ」なんて言うかな?彼女の闇はなんだったのか。みんなが気づかないように私にだけする劣悪な行為。
 私の大好きな先輩、一個上で部活の部長。高校も大学も同じで私を可愛がってくれた(のち、私の親友の1人と結婚した)。この先輩は、中学3年の時、くだらない先輩後輩制度はやめると言った。私の時代でなくすといった。廊下であったら必ず会釈しないといけないだとか、細かい取り決めがたくさんあったが、彼女は自分が3年の時仲間を募って、これを実現した。大事なのは男か女か歳が上か下かじゃない、人の本質はそこじゃないと。とても賢い方だった。(考え方が似ているので仲良くしてくれたのかも知れない)そしてやり遂げる強さと知識があった。先輩だけはRちゃんの真の性格をわかったくれた。(同じ吹奏楽部であり、セクションも一緒)

 今、人間関係で辛い人っているかな?必ず、わかってくれる人がいて、助けてくれる人もいる。そして自分とソリが合わない人は、実はその本人に闇を抱えていることも多い。人って自分中心に考えがちだが、相手のことを考えたときに気づけることもある。いい人でいないといけないって考えてる人いるかな?これは究極の自己満足だ。自分のためにいい人でいたいだけだ。と言うことはこれは相手を思う行為ではなく、時には自分のために相手を犠牲にしていることも伴う行為だと思う。
反対意見もたくさんあるだろうが、私は人を見抜く目だけはあると思っている。私は人に恵まれてきた。良くも悪くも。自分にとって、なくてもいい出来事なんかひとつもない。まだまだ書ききれないくらいの出会いがあるのだが、今日はこの辺で。

イジメを克服するまで 番外編

「 いじめを克服するまで」に出てきた5人の仲間の内の一人、Yちゃんの話。

 小学校4年になるまで知らない子だった、お互に。4年で同じクラスになり、部活動で同じトロンボーンだったこともあり、すぐに仲良くなった。家に行き来するようになり、近所だったせいもあって親同士も仲が良かったようだ。

 4年でいじめが始まったとき、彼女はそのグループにいた。この時の彼女は何にも考えておらず、ただのノリだけだったと思っている(子供だったし、4年生)。実際に、4年の時まではそこまで激しくなくケンカの延長に付き合わされていたようなものだ。ボスが3年生までいじめられてた事もあり、一緒にいじめられてたKを4年生になった事をきっかけに仲間はずれにしたかったようだ。(3年の時にいじめてた元ボスと、いじめられてた二人が同じクラスになってしまった。元ボスがまた同じクラスにいるため、Kをいじめることで最初は元ボスに取り入るためだった。が、立場が逆転してしまい、現ボスになった。というわけだ)

 5年になると本格的ないじめになった。ボスはニセモノの強さに翻弄されて、強いと勘違いして自分に歯向かうものの心を次々に殺していった。(内容はかきません。間違うと犯罪になる行為)男子までも。他のクラスまでも。ターゲットはクラスの女子だけでなく、男子も恐るようになり(因みにうちの男子の中に小学校の男子のボスがいる)、学年全部に広がり、終いに小学校中のボスになった。 

 部活の後輩の学年の親から小学校に訴えがあがった。いじめの発覚。この時、Yちゃんの親はうちの親に謝りに来ていたらしい。あの時、私の母親から聞いたことは、信じていた娘がいじめのグループに所属していて、私のことも無視したり仲間はずれにしたことについて、立ち上がれないほど謝罪していったと。こっちがいじめられていたにも関わらず私の母親も涙がこぼれたと言っていた。Yちゃんの母親はひどく憔悴しきっていた。

 この時初めて、Yちゃんは自分が軽い気持ちでいじめグループにいた事がどんなに浅はかであったか知ったのだ。仲間を抜けた。いじめの対象になった(職員会議を繰り返し、部活が停止になっても根本の解決にはならず、いじめは続いた)。無視されても、教科書や机がぼこぼこになっても、髪の毛を燃やされて一部ハゲになっても、彼女は絶対負けなかったし、泣いたところは見たことがない。凛としていて強い女性だった。 

 6年になって私がいじめグループに逆らおうと言ったとき彼女が1番に相談に乗ってくれた。そして1番信頼できたから、最初に声をかけた。いじめグループにいたのに、どうして信頼していたのか。私はもともと彼女がどういう人間か知っていた。彼女の母親のことも知っていた。Yちゃんはとても賢く、文学が好きで、音楽も好きで、スポーツもできて、可愛くて男の子にも人気があった。賢いが成績は良いわけではなく、遊び人だった。そこが人気の理由。彼女はここまで素晴らしいセンスの持ち主でも優等生ではなかった笑彼女のことも信頼していたが、彼女の母親の哲学がしっかりしていた(普段はただのおもしろおばさんだったが)

 私見になるが優等生であろうとする人に本当の優等生はいない。実は先生も体感でわかっていて、本当に重要な案件はいわゆる優等生タイプに求めないところがある。人が人を信頼するとき、うわべでどうあるかというより、心の奥の奥にあるものを見抜くことが大事な鍵だ。

 Yちゃんとは高校・大学は違えど、通ってたところは同じ弘前市であったので、私が栃木に来るまで一緒に遊んだ。一番最初にカメラのことを聞いたのは実は彼女。大学の時カメラ部に所属していた彼女は自室に暗室があった。デジカメではないので加工なし。セピアな写真もアナログと自分の技術で撮る。私はカメラは全然やらなかったけどよく話を聞いたり、見せてもらったりしていた。

 中学の時の私の初恋相手の彼女がYちゃんと知らず相談したり、高校の時紹介した男の子と、ものの3日で別れたり、私も彼女には振り回されたが、それでも一緒にいじめを克服した時の大事な仲間で親友で、とてもクレバーで強く美しく私の憧れ。どうしてるかな

 私はすぐ泣くし、Yちゃんみたいに強くない。ただ彼女と同じ点がある。自分の心の奥の核となる部分、絶対に曲げられないし、譲れないところ。周りからどう見られても、カッコ悪く、アホみたいなフリしても奥にあるものが信じられれば生きていけるのです。Yちゃんの底にある部分が私は信じることができた。私の初めての信頼できる友達の話でした。きっと誰にでもこういう経験ってあるはず。忘れないで生きていきたいものです。