
ⅰ.浪岡町とは。合併に至る経緯。
*私見を含みます。また振り返っての文章なので、間違いがあったらすみません。
2005.4.1 浪岡町は青森市と合併し消滅した。
今は青森県青森市になってしまったが、元は青森県南津軽郡浪岡町であった。南津軽郡に属していたので当然のように学区は中弘南黒地区(中津軽郡、弘前市、南津軽郡、黒石市をまとめた地区)。なので当たり前のように弘前の高校を選び、大学も地元の国立を選ぶなら普通にJRで通いなれた感じだからまあいっかくらいの感覚だ。
この頃は浪岡町に終焉が来るとは思っていなかった。
中学になると社会科で地理や歴史、公民を勉強するが、地図帳を見るのが好きであったし、人口密度やその街の産業など調べるのが好きだった。自分の住んでいる浪岡町の特性や、他と比べての強み、また弱いところなど、自分なりに分析して父と話したりしたものだ(父親は浪岡町の職員であった)。小学校6年の時の夏休みの自由研究で、浪岡町の城跡、浪岡城について全校生徒の前で発表したりなど思い入れがある。りんごの生産量は弘前市が全国一位であるが町村で見るなら浪岡町が一位であった(その当時)
*浪岡城とは
築城主 北畠顕義(始祖 北畠親房 後醍醐天皇側近「後の三房」の筆頭。『神皇正統記』が有名)途中の系図は諸説あり。1460年代に築城。1578年大浦為信(のちの津軽為信 弘前城築城主)により落城。参照資料Wikipedia
合併問題が起こっている頃、ちょうど長男の出産のために里帰りしていた時だった。当時の浪岡町役場の町長が合併推進派であったこと、青森県知事、青森市長、代議士と懇意であったため、今思えばこの町長が当選したのは合併を進めるためだったとしか思えない。しかしながら、どんな選挙活動をされていようが、一票を投じるのは浪岡町の有権者である。結局、町民の意思(民意)なのであろう。そう思うしかない、今となっては。しかし、いよいよ具体的に決まりだすにつれて、町民は気づき始めた。新しく合併反対派の町長にとって変わっても、合併が議会で可決してからでは遅かった。合併の是非を問うための住民投票を行うも、反対派の署名がおよそ9割であっても、県で賛成多数で議決、合併決定書が出された後では覆るはずもなかった。県に出される前から浪岡町の町民は署名活動を行い民意を主張すべく議会に提出するも2回とも否決。そもそも合併推進派の議員多数の中、通る訳などなかった。
まだ大学生だった1999年当時は、政府主導で地方分権を推進する観点から合併を促す動きではあったが、浪岡町は単独で行く方針を貫いているはずだったし、まさか合併になるとは。編入合併という形になるので、2005.4.1をもって浪岡町の法人格は消滅した。
合併自体が悪いと言っているのではない。地方分権を推し進め、国家の機能を分担していくべきであるし、その考え方からも、あの当時、合併を促す方針は時代背景としては間違ってない。(当時は規制緩和、金融ビックバン、郵政民営化、第3次ベンチャーブームの時代。国家の機能が成熟し、機能を縮減すべく、一部は地方や民間などに委ねていく流れ。転換期)
しかし、地方の在り方を今一度考えるということはいい。しかし、浪岡町にとって、青森市との合併は一番避けなくてはいけない合併の形である。このまま単独で行くか、せめて近隣の町村と合併するか、山一つ超えた青森市と合併するなど、考えたこともなかった。浪岡町は地理的には青森市と弘前市の間に位置する。弘前市と浪岡町の間にはいくつか南津軽郡の町村が間にあって、弘前市との合併はまずない。浪岡町にとって一番いいのは単独で行くこと。青森市とは隣り合っているが実は山一つ挟んでいて、浪岡町から青森市街に行くにはなかなかの距離がある(冬場は山を越えるのに道路が凍結して、地元民でもなかなかしんどい)
町民にとって、一番あってはならない合併が実現してしまった。
次回へ続く
ⅱ.青森市合併後。浪岡地区の今。そして。