泣き虫だった幼少期からいじめを克服するまで

近所の公園にて

幼稚園児から小学校卒業まで 

小さい時の私は人見知りだった。そしてやっぱりちょっと変わっていたようだ。病弱でいつも入院していた母の代わりに、父が家事と育児をこなしていた。そしてもうなくなった祖母が5kmはあろう道のりを歩いて私を見に来てくれた。 父が今でもいうが、幼稚園の記録簿や小学校の低学年までの先生の一言にはいつも「お友達の輪の中に入っていけません。おとなしすぎて心配です」と書かれていたらしい。当の本人といえば、実はこのころから無理して友達にならなくてもよいとか、自分の好きな遊びをしていたいとか、みんなの真似なんかしたくないとか、もうその頃から思っていた。今でもそうだけど、はやりものやみんながこぞって買うものとかに興味がない。そういう性格は小さい時だから余計に先生を不安にさせたのだろう。 近所の幼馴染も男の子ばかり。リカちゃん人形やバービー人形は持ったことがなかった。ミミズやカエルを追いかけ、小学校の時は男の子からカブトムシの幼虫をもらって、

朝から夕方まで幼虫から蛹に変わるまでをずーっと見ていたこともある。(わたしの子供たち、長女も長男も二人とも理系で長男も生物選択である。希望の大学もそっち。高2) 

 周りに合わせず、普通のおままごと遊びをしないせいもあって、低学年まではよくからかわれていた。よく泣きながら家に帰ったものだ。 

小学校4年生でクラス替えをした。

近所で、また同じクラスになった腐れ縁のMに

「Kと口きくなよ」と。「何でよ、それ言うこと聞かなきゃダメなの」と言い返したがもうすでに、新しいクラスメイトはKを無視していた。いじめの始まり。

この後6年生まで続く壮絶ないじめ。ほかのクラスを巻き込んで、部活動が停止になって(マーチングをやっていたが県代表は取れなかったものの、強かった。県代表は当時弘前市立文京小学校と城東小学校が全国上位の常連で、青森県は代表は2枠しかなかったのでこの2校を抜いて県代表をとるのは至難の業だった。特別枠で初の招待校として東北大会で演技)

教育委員会が間に入るようないじめ。

私は被害者も加害者も経験した。いじめられないためにいじめに参加した。情けない自分に向き合えない日々。悔しい。いじめられることがじゃない。立ち向かえない情けない自分に腹が立った。 6年生になっても続いた。このころになると男女の性別がはっきりとわかる成長期だ。いじめの質も変わる。限界だった。友達を誘って自分たちだけでも抗おうと決めた。仲間を集うとき、「あと少し待てば卒業だよ。目を付けられるの嫌だし、私はおとなしくしてる。誘わないで」と断ってきた子もたくさんいたが、とりあえず5人で逆らった。そしたら逆風が吹くものだ。誘わないでといった子たちも全員こっち側に。いじめる側が今度仲間割れをしだして、だれがボスかわからなくなった。情けない自分から、いじめを自ら克服した瞬間だった。 私の住んでいた地域は小学校7校が1校の中学校に集まる。自分の小学校、浪岡北小学校はその中でも1番大きく、一番荒れていた小学校だった。その中でも私のクラスが最悪だった。いじめのボスに逆らおうと声を出したのは私だった。。。 

そして中学へ

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