両親から学んだこと

 私の両親はいわゆる団塊の世代。父が昭和22年、母は昭和23年生まれだ。その当時の話は歴史の教科書で習うか、父親から聞いている話くらいで実際の生活は想像がつかない。ただ、今の日本の礎を築いたことは間違いなく、そこは尊敬すべきだと思ってるし、今生かされている私たちは当たり前とおもわず邁進するべきだとも思っている。高度成長期を支えた重要な働き手であったわけだし、経済成長や文化的な成長(例えばファッション、娯楽関係など)もこの世代が基礎を作ってくれた。

  私は青森県出身。いまと違い、父親の時代は中央に住んでいる人たちよりも地方人はやはり貧しく、大学に行く人の割合も低い。父の兄弟である叔父などは中学を卒業して集団就職の夜行列車に乗っている。父親の生まれた家は大学に行けるような裕福な家ではなく、自分は成績が良かった故、工業高校の機械科へ進み、エンジニアになりたかったと言っていた。(当時は2次産業が盛んな時代、富士通へ就職したかったんだと話してくれた)。夢は叶わなかったが。父は高校2年生の時、結核になった。1年休学せざるをえなくなった。4年かかって高校を卒業したものの普通の就職には叶わず、自宅で療養しながら長男の世話になってる自分が情けなかったと当時を振り返っている。次男であるから、しっかり就職して、家を出るつもりでいたのに、情けないと。

 自宅で療養しながら、浪岡町役場の試験を受けて就職。地方公務員になった。仕事をしていくうちに畑違いの内容に、これではいけないと、法律を学びたいと当時の上司(町長)に直談判に行った。(通信教育で大学で学ぶには夏休みなどにスクーリングがあり、どうしてもまとめて休みをもらわなくてはならない)当時のこの町長も素晴らしい人だと思う。許していただき、大学の通信教育で法律を学ぶことになった。当時はもう結婚していて、母も家計をやりくりするのに大変だったろう。月給は2万円だったと聞いている(今との物価の差にビックリ)。工業高校出身であったので、一般教養を学ぶには大変だったと思う。どうしても普通科の人たちより学んでいないことも多いだろうし。おまけに、スクーリングの一ヶ月の下宿の間、母は東京で腹痛のために手術をする羽目になった。下宿先のおかみさんにはお世話になったんだと両親は懐かしむ。(母は私たち姉弟を産む前、東京で卵巣嚢腫の手術をし、卵巣の3/4を失った)

 それでも4年で中央大学法学部を卒業。立派な卒業証書を見せてもらったことがある。私が高校受験を失敗し、他の人より遅れて高校生になった時も(実は大学受験も失敗しているが)父からもらった言葉は、

「普通の人が進む普通の道がいいとは限らない。いろんな道を歩むからこそ他の人より気付けることもある」

 父のことばは薄っぺらな言葉ではなく、説得力があるのは実体験から。だから私は受験に落ちた時、みんなと一緒に高校生になれなかった時も素直に前に進めたのだと思う。父の言葉は私を慰める言葉では決してないからだ。ただの慰めの言葉ほど人を傷つける言葉はない。父は法律を学んだ、なにを学んだか。人間の生まれ持っている権利についても私にはよく話してくれた。当時、昭和世代はまだまだ父性制度が残っていた時代。その時代にあっても男が偉い時代ではないと、年齢には関係なく実力で評価されなければならないと語ってくれた。私が物心ついた時にはもうこの考えが身に染みていた。(私は昭和49年6月生まれ、団塊ジュニアである)ガチガチの年功序列の時代にあって、その言葉を堂々と言うだけの器があり、私は父を尊敬していた。

 一方で母は私には、

「パパの言うことは正しい。でも、世間はまだそうではないから、お前は女だからね。可愛くしないと、損をするよ。仮に男よりも実力があっても、女を認めてくれる時代ではないから上手な生き方をしなさい」と。

 でも実際は間違ってない。正直、未だ日本は性別関係なく評価されるようになってない。公務員の社会でも、市役所や県庁でもどのくらいの割合で女性の部長がいるのか。正しく評価されて女性の割合が少ないのか。実際はどうなんだろうと今でも考える。

 母にはこう言ってもらったんだが、私はそれでも自分を偽ることができず、可愛げのない人生を送っている。可愛く、媚を売る生き方も否定はしない。私は私の生き方をする。私の本当を見てくれる人が絶対いると思っているし、誰かに認められなくても、好きな人に嫌われても、要領が悪いと言われても、最後死ぬ時自分が自信を持って自分を生きることができたと言って人生を終えたい。 

 母は父と違って勉強が嫌いなタイプでまるでできない人。でも可愛くすることが大好きで洋服も大好きな人だ。

「お金を積めば誰だってそれなりに、身を飾ることはできる。それはオシャレじゃないと思う。限られた予算の中で、どれだけのおしゃれができるかってことだとママは思うよ」

って私は教わってきた。今でもそれは同感。そこがセンスが表れるとこだし、人と差をつけるポイントだ。私のお金やものの価値観はそこからきている。(私は物作りもリメイクも大好き)

 父の人間の権利に関する学びは、同時に他人も同様に生きる権利のあることを示し、このことは他人の価値観も認めないといけないと教えてくれた。母のおしゃれに関する教えもそうだ。ものの価値観についての私の基礎基本は両親の、まるで違う内容な感じがするが、私のベースになっている。

 賢くかっこいいパパと、かわいいママ(2人とも若い時の話)は私の自慢であるが、両親はタイプがまるで違うので喧嘩も絶えなかった。6つ下の弟も気が強く、わがままだ。うちの家族は4者4様。でもみんなそれぞれ相手の意見は尊重することを知っているので、よく話し、討論をし、騒がしい家族であった。

 年明け、母は大きい手術が待っている。コロナの影響で付き添いも叶わないけど。

みんな長生きしますように。

次回、父が勤めた浪岡町役場の最後、

「平成の大合併、浪岡町の最後。退職目前にして、どう対抗したか。またその思い」編

地方や出身地がなくなること。その思い。私が宇都宮BREXを応援する理由、なべちゃんのオンラインサロンに入会した理由

実は私の強い思い、目的がそこにはありました。

全て繋がって行きます。書き終えたら飽きずに読んでほしいです。是非是非

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