両親から学んだこと

 私の両親はいわゆる団塊の世代。父が昭和22年、母は昭和23年生まれだ。その当時の話は歴史の教科書で習うか、父親から聞いている話くらいで実際の生活は想像がつかない。ただ、今の日本の礎を築いたことは間違いなく、そこは尊敬すべきだと思ってるし、今生かされている私たちは当たり前とおもわず邁進するべきだとも思っている。高度成長期を支えた重要な働き手であったわけだし、経済成長や文化的な成長(例えばファッション、娯楽関係など)もこの世代が基礎を作ってくれた。

  私は青森県出身。いまと違い、父親の時代は中央に住んでいる人たちよりも地方人はやはり貧しく、大学に行く人の割合も低い。父の兄弟である叔父などは中学を卒業して集団就職の夜行列車に乗っている。父親の生まれた家は大学に行けるような裕福な家ではなく、自分は成績が良かった故、工業高校の機械科へ進み、エンジニアになりたかったと言っていた。(当時は2次産業が盛んな時代、富士通へ就職したかったんだと話してくれた)。夢は叶わなかったが。父は高校2年生の時、結核になった。1年休学せざるをえなくなった。4年かかって高校を卒業したものの普通の就職には叶わず、自宅で療養しながら長男の世話になってる自分が情けなかったと当時を振り返っている。次男であるから、しっかり就職して、家を出るつもりでいたのに、情けないと。

 自宅で療養しながら、浪岡町役場の試験を受けて就職。地方公務員になった。仕事をしていくうちに畑違いの内容に、これではいけないと、法律を学びたいと当時の上司(町長)に直談判に行った。(通信教育で大学で学ぶには夏休みなどにスクーリングがあり、どうしてもまとめて休みをもらわなくてはならない)当時のこの町長も素晴らしい人だと思う。許していただき、大学の通信教育で法律を学ぶことになった。当時はもう結婚していて、母も家計をやりくりするのに大変だったろう。月給は2万円だったと聞いている(今との物価の差にビックリ)。工業高校出身であったので、一般教養を学ぶには大変だったと思う。どうしても普通科の人たちより学んでいないことも多いだろうし。おまけに、スクーリングの一ヶ月の下宿の間、母は東京で腹痛のために手術をする羽目になった。下宿先のおかみさんにはお世話になったんだと両親は懐かしむ。(母は私たち姉弟を産む前、東京で卵巣嚢腫の手術をし、卵巣の3/4を失った)

 それでも4年で中央大学法学部を卒業。立派な卒業証書を見せてもらったことがある。私が高校受験を失敗し、他の人より遅れて高校生になった時も(実は大学受験も失敗しているが)父からもらった言葉は、

「普通の人が進む普通の道がいいとは限らない。いろんな道を歩むからこそ他の人より気付けることもある」

 父のことばは薄っぺらな言葉ではなく、説得力があるのは実体験から。だから私は受験に落ちた時、みんなと一緒に高校生になれなかった時も素直に前に進めたのだと思う。父の言葉は私を慰める言葉では決してないからだ。ただの慰めの言葉ほど人を傷つける言葉はない。父は法律を学んだ、なにを学んだか。人間の生まれ持っている権利についても私にはよく話してくれた。当時、昭和世代はまだまだ父性制度が残っていた時代。その時代にあっても男が偉い時代ではないと、年齢には関係なく実力で評価されなければならないと語ってくれた。私が物心ついた時にはもうこの考えが身に染みていた。(私は昭和49年6月生まれ、団塊ジュニアである)ガチガチの年功序列の時代にあって、その言葉を堂々と言うだけの器があり、私は父を尊敬していた。

 一方で母は私には、

「パパの言うことは正しい。でも、世間はまだそうではないから、お前は女だからね。可愛くしないと、損をするよ。仮に男よりも実力があっても、女を認めてくれる時代ではないから上手な生き方をしなさい」と。

 でも実際は間違ってない。正直、未だ日本は性別関係なく評価されるようになってない。公務員の社会でも、市役所や県庁でもどのくらいの割合で女性の部長がいるのか。正しく評価されて女性の割合が少ないのか。実際はどうなんだろうと今でも考える。

 母にはこう言ってもらったんだが、私はそれでも自分を偽ることができず、可愛げのない人生を送っている。可愛く、媚を売る生き方も否定はしない。私は私の生き方をする。私の本当を見てくれる人が絶対いると思っているし、誰かに認められなくても、好きな人に嫌われても、要領が悪いと言われても、最後死ぬ時自分が自信を持って自分を生きることができたと言って人生を終えたい。 

 母は父と違って勉強が嫌いなタイプでまるでできない人。でも可愛くすることが大好きで洋服も大好きな人だ。

「お金を積めば誰だってそれなりに、身を飾ることはできる。それはオシャレじゃないと思う。限られた予算の中で、どれだけのおしゃれができるかってことだとママは思うよ」

って私は教わってきた。今でもそれは同感。そこがセンスが表れるとこだし、人と差をつけるポイントだ。私のお金やものの価値観はそこからきている。(私は物作りもリメイクも大好き)

 父の人間の権利に関する学びは、同時に他人も同様に生きる権利のあることを示し、このことは他人の価値観も認めないといけないと教えてくれた。母のおしゃれに関する教えもそうだ。ものの価値観についての私の基礎基本は両親の、まるで違う内容な感じがするが、私のベースになっている。

 賢くかっこいいパパと、かわいいママ(2人とも若い時の話)は私の自慢であるが、両親はタイプがまるで違うので喧嘩も絶えなかった。6つ下の弟も気が強く、わがままだ。うちの家族は4者4様。でもみんなそれぞれ相手の意見は尊重することを知っているので、よく話し、討論をし、騒がしい家族であった。

 年明け、母は大きい手術が待っている。コロナの影響で付き添いも叶わないけど。

みんな長生きしますように。

次回、父が勤めた浪岡町役場の最後、

「平成の大合併、浪岡町の最後。退職目前にして、どう対抗したか。またその思い」編

地方や出身地がなくなること。その思い。私が宇都宮BREXを応援する理由、なべちゃんのオンラインサロンに入会した理由

実は私の強い思い、目的がそこにはありました。

全て繋がって行きます。書き終えたら飽きずに読んでほしいです。是非是非

ママチャリ〜「優等生」になりたいか編の番外編〜

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「優等生になりたい?」編に出てきたママチャリエピソード。「お金の価値観」へんで書こうと思ったんだけど、ショートエピソードでここで書いちゃう。

 高校生の時、地元の浪岡町(今は青森市に合併。合併問題にも追々ふれていきます。)からJRで弘前市に通っていたのですが、浪岡駅までは家から自転車でいき、弘前駅にも置きチャリしてそこから高校まで通っていました。浪岡だろうが弘前だろうが、まあ自転車いたずらされるわけです。盗まれたり、サドルだけないとか、前輪がないとか。。。防犯登録してても帰ってくる自転車は見るも無残な姿。親に言って何回か自転車を買ってもらって、ホームセンターに売ってるような安いやつでもさ、本当にお願いするたび申し訳ない気持ちでいっぱい。盗難届けを出しに駅前の交番に行くこと数回。そのうち巡査と知り合いになっちゃって、弘前城の桜祭りの時なんかそっちに駆り出されてる巡査が道路挟んでるのに、

「あっ、お前」なんて言うから友達が補導されるって逃げる始末(なんもしてないんだったら逃げんなって)。

 と言うわけでもう後がない私(自転車に関して)。なのにあるとき、チャリで曲がったら正面から坂を下ってきた工業高校の生徒にぶつかられた(遅刻して怒られた3年の弘高祭当日)。自転車が乗れなくなってて、とりあえず押して高校へ行って、帰りに高校向かいの自転車屋さんへ。もちろん弘高生はみんな顔馴染みだったはず。修理できるかなぁ、お小遣いで直せるかなぁって思いながら。。。

「残念だけどチェーンがイカれてるからもうダメだなぁ」

だって絶望的。しかし

「お前が良ければ、この自転車どうだ?使えるとこだけ繋げて1台の自転車俺仕上げたんだけど。パーツ全部違う自転車だからカッコ悪いけど。」

確かに、ハンドル、チェーンの部分、骨組み?の色、全部違う。カゴもおばさんの自転車のカゴ。タイヤは24インチ。でも

「俺の傑作1000円で譲ってやる」

ってもう神!!こんな話ある?すごく嬉しくて感動して1000円でいただいていきました。私にとってはこんなに価値のある自転車なんかないよ。どんなに不恰好でも。それを、あの2人は「なにそれ、ママチャリじゃん」って言ったのです。あの2人はお金を積んだ高い立派な自転車乗ってたね、確かに。でもモノの価値ってどこにあるかな? 今、子を持つ親になって、その時私が実体験として理解できた価値観を子供達にも経験させてあげられてるかな?って情けなく思います。このブログを始めたのもこういう思いを形に残しておきたかったせい。いつまでも忘れちゃいけないことだし、伝えていかないとなって思います。

優等生でありたい?いい人ってどんな人?

中学の時吹奏楽部で吹いていたもの

 そういえば思い出した事がある。

 昨夜、久しぶりに絵を描きたくなったので画材を漁ってた時だ。絵は得意というほどではないが描くのは好きだった。中学に上がる時の春休み、絵の課題が出た。面倒だったので自室から家の前の公園の風景を適当に仕上げた。 

 入学して初めての美術の時間、先生が一枚づつ評価していくのだ。入学してまだ間も無く、他の小学校での美術のレベルなどわからないし恥ずかしく、嫌だったのを覚えている。私のクラスには街の中心部にある小学校からきた優等生だと有名なYさんがいた。彼女はとても綺麗で、地元の地主の子でお金持ち。運動神経も良く、色白で目が大きくて髪の毛がサラサラで男子の注目の的。彼女の絵が先生から評価される時、先生は無言だった。でもとても素晴らしい絵で私はこんなの中1で描けんのかって。私の小学校は荒れてたし、やっぱり優等生小学校は違うなあと思ったのを覚えている(かつて街の中心部に浪岡小学校があり児童数が増えたため、北小と南小に分かれた。北小はヤクザ学校、南小学校は優等生の集団だと比較された。私はヤクザ学校出身)しばらくして私の絵の番がきた。先生はいろいろ評価をくれ、最後に

「お前これどのくらいで仕上げた」

「すみません、1時間半くらいです(適当に描いたのがバレたと思った)」しかし、評価は高かった。これそのくらいで仕上げるのは見込みがあるなぁ。となぜだ?Yさんの絵は素晴らしいと思ったのに。

 私はその時知らなかった。あの絵はミレーの『落ち穂拾い』のパクリであった。クラスのみんなは知識がなくても美術の先生は騙されるわけなかろう。先生の彼女に対する信頼はあの時一気に無くしてしまったに違いない。
 私は髪の毛も癖っ毛で女の子らしくもないし、性格がまた言いたい放題な方だった。授業中でもわからないことはわからないと言い、男子から

「だから何回言えばいいんだよ、こうだって言ったろ」

「だってさ、こういう場合は今のだと当てはまらないじゃん」

など、私の周りが先生も含め楽しそうだったのが気に入らなかったのだろう。 YさんとYさんと連んでいたRちゃんにはよく陰口を叩かれた。この2人、優等生だった。自分以外の人が中心にいるのが気に食わない。でも今思う。お金持ちの子だし、チヤホヤされてきたんだろう。親が子を褒めて育てるのは間違ってない。ただ間違った褒め方をすると、自分の本質を見失う。わからないまま大人になる。Yさんは偽物だった。落ち穂拾いのパクリに見るように。その後どんどん彼女は落ちていき、最後の吹奏楽コンクールの3年の時出られなかった。私の中学校はBクラスで出場。Bクラスの定員は30名。3年の部員は35人だった。お金持ちだからマイ楽器も使っていたが部活に臨む姿勢がいい加減だった。そういう態度をとることが目一杯の虚勢だったのかもしれない。

 優等生であろうとする人に本物の優等生はいないと前言ったが、実はYさんと連んでいたRちゃんもそうだ。彼女の方は実は近所で幼馴染。ただ小学校の頃クラスは違ったので大きないじめの問題には優等生であるが故にのらりくらりと我関せずを通していた。

 よっぽど私のことが気に入らないのか、高校生になっても「去年と同じコート着てるの?」「それママチャリじゃん」(この時使用していたママチャリにはちょっとしたエピソードがある。後ほど『高校編、お金の価値観について』で)など。高校違うとこ行ったのに、私のこと嫌いなら構わなきゃいいのに、と思いながら。彼女には幼稚園の頃、白ツメ草で編んだ輪っかを「なにこんなもの」と言って足で踏み躙られたことも、、、ここまで聞くとすごい性格悪い感じに思うだろうが、実はRちゃんは同級生にも先生にも保護者にもすこぶる評判がいい。私のことが嫌いであっても、すごくいい人であれば人が作ったものを踏み躙る行為や、両親の建てた家を(私の実家の建物)を「相変わらず変わり映えしないね。私のうちは建て替えたよ」なんて言うかな?彼女の闇はなんだったのか。みんなが気づかないように私にだけする劣悪な行為。
 私の大好きな先輩、一個上で部活の部長。高校も大学も同じで私を可愛がってくれた(のち、私の親友の1人と結婚した)。この先輩は、中学3年の時、くだらない先輩後輩制度はやめると言った。私の時代でなくすといった。廊下であったら必ず会釈しないといけないだとか、細かい取り決めがたくさんあったが、彼女は自分が3年の時仲間を募って、これを実現した。大事なのは男か女か歳が上か下かじゃない、人の本質はそこじゃないと。とても賢い方だった。(考え方が似ているので仲良くしてくれたのかも知れない)そしてやり遂げる強さと知識があった。先輩だけはRちゃんの真の性格をわかったくれた。(同じ吹奏楽部であり、セクションも一緒)

 今、人間関係で辛い人っているかな?必ず、わかってくれる人がいて、助けてくれる人もいる。そして自分とソリが合わない人は、実はその本人に闇を抱えていることも多い。人って自分中心に考えがちだが、相手のことを考えたときに気づけることもある。いい人でいないといけないって考えてる人いるかな?これは究極の自己満足だ。自分のためにいい人でいたいだけだ。と言うことはこれは相手を思う行為ではなく、時には自分のために相手を犠牲にしていることも伴う行為だと思う。
反対意見もたくさんあるだろうが、私は人を見抜く目だけはあると思っている。私は人に恵まれてきた。良くも悪くも。自分にとって、なくてもいい出来事なんかひとつもない。まだまだ書ききれないくらいの出会いがあるのだが、今日はこの辺で。

奇跡の出会い①〜現在のお仲間さんのこと〜

私は運命論者である。

宇都宮BREXのファンになってまだ日が浅い。Twitterもずーっと封印してたのだが、1年くらい前にまた始めたのはBREXブースターの皆様から情報を得るためだった。

 Twitterは特に活用の仕方がわからず、そのうち会社内でSNSの利用の過程で問題が起こったことと、やはり同じ所属の後輩が会社内の同僚の悪口を書き始めたことをきっかけにアプリを削除していた。先にも書いたが、マコさんが気になってしまうきっかけはあの日のケガから。いろいろSNSを駆使してマコさんのケガの状態が知りたかった。 それがまたTwitterを復活させた理由だった。 ここのバスケ好きさんが集まっている場所はとても心地がいい。みんな優しく気さくで大人だ。なので私はバスケ専用垢としてここに参加させてもらっている(雑多垢の住人がこのいい環境を荒らすのを防ぐため、基本バスケ好き意外フォロワーさん増えていない)。受け入れてくださってる皆様、フォロワー様いつもありがとうございます。中には面白い人たちもとても多く、朝から大笑いする日もある。マコ友である今のお仲間さんもその中の人達。いつのまにか、いや実はあんまり覚えてないのだが、本当にいつからなのか(笑笑)、自然におしゃべりするようになって、「アレ、昔から友達だったっけ」状態。だんだん開幕戦が近づきつつある時、なんの話からそうなったんだっけ???アレの被り物の話にっっっっっっw

最初はただのネタだったはずなのだが、だんだん怪しい感じに。いやリアルなアレになったら困るので程々に可愛いアレに。ネタのはずが本当にポチるノリの良さ。もう笑いしかない。ツイートしながら大笑いだよ、これ。(この時長女が帰省中だったのだが、「めちゃ笑うじゃん」とつっこまれた)まじで大笑い。あの、まだこの時点で顔の知らない方々。アレが用意できたらみんなで会いたくなるでしょ。いよいよ開幕が楽しみに。2021/10/2(土)群馬戦、会えました。4人で集まれました。ちょっと一人遅れちゃったけど。(1人県内の方は、

お仕事終わってから来たのでそうなった)

①大阪と愛知からの来訪者とは宇都宮駅で早朝より待ち合わせ。(マコさんが行ったであろう場所に3人で行くため)

②案内するはずのホットパンツがあろうことか腹痛のため2時間近く遅刻(合流した時全く緊張しなかった。だってさ、さんざんSNSでおしゃべりしてたんだし)

③目的の場所でマコ談義に(好き勝手におしゃべりしてきてあっという間に時間が過ぎた。内容は語れない笑)

④ランチしてBREXの聖地へ“うさぎやTSUTAYA宇都宮駅東口店@TULLY’s”

(この時お話ししてくださったブースターの皆さんありがとうございました)

⑤銀杏並木で写真撮影(Cさん、Sちゃんありがとう。1人は合流できずに残念)

⑥ギリギリでヤツ(県内の)と顔合わせ。

⑦試合終了待たずにバスの時間があるため大阪が離脱

⑧みんなまたね

お仲間さん

⭐︎🍋lemon🍋6:一見スンとしているが、その時その中身は何も考えていない。賢さが雰囲気に表れてるため最初の頃は、姉さんとか🍋姉と呼んでいた。だが、赤のシャー芯を間違って買ってしまうエピソードあたりから私はレモンちゃんと呼んでいる。大体わかってはいたんだけど、、まあ確信に変わった。そういう、、、ね。基本価値観が私と似ていると思っている。

⭐︎みきみき:よりによって、アレの発案者である。被る羽目になったのは彼女のせい。宇都宮は遠方なのであんまりアリーナに来れないのだがアレの布教活動に力を入れているらしい。さすがになにわのユカイな女性。たまに暴走する。そういう時はレモンちゃんが抑え込んでいる感がある。ドS風だが中身と見た目はほんとにキュート。

⭐︎ひーこ。:県内在住。いつもニコニコしている。気づけばいつも笑っている。人と会ったり関わったりするのが本当にきっと好きなんだろう。とても気持ちの優しい方。立ち位置がマコさんと似ているかもなーって思っている。がしかし、割と人を振り回すタイプ。そして本人は絶対気づいていない。天然。それも本人は気づいていないであろう。幸せ者。

⭐︎Hotpants:私。見た目は、実は怖いとかとっつきにくいと言われてきた。おしゃべりが大好きで喋らせたら、いつまでも喋っていられるが、慣れてきた相手にはあんまり喋っていかない。なぜならもう気を使う必要がないから。立ち位置的にはなべちゃんとタイプが似ているかな(なべさんファンの方ごめんなさい)。しかしドM。振り回されるのが意外に好き。

 私が栃木県に来ていなければ、宇都宮BREXを知らなければ、Twitterを復活していなければ、マコさんがケガをした12/9アリーナで試合を観戦していなければ、マコさんのファンになっていなければ出会えなかった人たち。 私の今までの人生があって出会えた人たち。今までの失敗もこのためだったのかと思える。運命って実に不思議だ。

 この先も続く私の人生。出会ってきた人たちは私と縁がある人たち。だって私出身地は青森県だ。栃木にいるのも不思議だけど、愛知や大阪がいる。私は「縁」ってあると思っていて、誰と言わず、誰とでも当てはまることだが、出会いがあるならいつか別れも来る。この先別れることがあるなら縁もそこまでと割り切る。でも縁があるならまた出会えるんだ。結局、またどこかで再会するようになっている(実際そういうことが前の職場であった)。今後はどうなっていくかは誰にもわからないけど、縁が続く限り、よろしくお願いします。、、、、もちろんみなさまも。

イジメを克服するまで 番外編

「 いじめを克服するまで」に出てきた5人の仲間の内の一人、Yちゃんの話。

 小学校4年になるまで知らない子だった、お互に。4年で同じクラスになり、部活動で同じトロンボーンだったこともあり、すぐに仲良くなった。家に行き来するようになり、近所だったせいもあって親同士も仲が良かったようだ。

 4年でいじめが始まったとき、彼女はそのグループにいた。この時の彼女は何にも考えておらず、ただのノリだけだったと思っている(子供だったし、4年生)。実際に、4年の時まではそこまで激しくなくケンカの延長に付き合わされていたようなものだ。ボスが3年生までいじめられてた事もあり、一緒にいじめられてたKを4年生になった事をきっかけに仲間はずれにしたかったようだ。(3年の時にいじめてた元ボスと、いじめられてた二人が同じクラスになってしまった。元ボスがまた同じクラスにいるため、Kをいじめることで最初は元ボスに取り入るためだった。が、立場が逆転してしまい、現ボスになった。というわけだ)

 5年になると本格的ないじめになった。ボスはニセモノの強さに翻弄されて、強いと勘違いして自分に歯向かうものの心を次々に殺していった。(内容はかきません。間違うと犯罪になる行為)男子までも。他のクラスまでも。ターゲットはクラスの女子だけでなく、男子も恐るようになり(因みにうちの男子の中に小学校の男子のボスがいる)、学年全部に広がり、終いに小学校中のボスになった。 

 部活の後輩の学年の親から小学校に訴えがあがった。いじめの発覚。この時、Yちゃんの親はうちの親に謝りに来ていたらしい。あの時、私の母親から聞いたことは、信じていた娘がいじめのグループに所属していて、私のことも無視したり仲間はずれにしたことについて、立ち上がれないほど謝罪していったと。こっちがいじめられていたにも関わらず私の母親も涙がこぼれたと言っていた。Yちゃんの母親はひどく憔悴しきっていた。

 この時初めて、Yちゃんは自分が軽い気持ちでいじめグループにいた事がどんなに浅はかであったか知ったのだ。仲間を抜けた。いじめの対象になった(職員会議を繰り返し、部活が停止になっても根本の解決にはならず、いじめは続いた)。無視されても、教科書や机がぼこぼこになっても、髪の毛を燃やされて一部ハゲになっても、彼女は絶対負けなかったし、泣いたところは見たことがない。凛としていて強い女性だった。 

 6年になって私がいじめグループに逆らおうと言ったとき彼女が1番に相談に乗ってくれた。そして1番信頼できたから、最初に声をかけた。いじめグループにいたのに、どうして信頼していたのか。私はもともと彼女がどういう人間か知っていた。彼女の母親のことも知っていた。Yちゃんはとても賢く、文学が好きで、音楽も好きで、スポーツもできて、可愛くて男の子にも人気があった。賢いが成績は良いわけではなく、遊び人だった。そこが人気の理由。彼女はここまで素晴らしいセンスの持ち主でも優等生ではなかった笑彼女のことも信頼していたが、彼女の母親の哲学がしっかりしていた(普段はただのおもしろおばさんだったが)

 私見になるが優等生であろうとする人に本当の優等生はいない。実は先生も体感でわかっていて、本当に重要な案件はいわゆる優等生タイプに求めないところがある。人が人を信頼するとき、うわべでどうあるかというより、心の奥の奥にあるものを見抜くことが大事な鍵だ。

 Yちゃんとは高校・大学は違えど、通ってたところは同じ弘前市であったので、私が栃木に来るまで一緒に遊んだ。一番最初にカメラのことを聞いたのは実は彼女。大学の時カメラ部に所属していた彼女は自室に暗室があった。デジカメではないので加工なし。セピアな写真もアナログと自分の技術で撮る。私はカメラは全然やらなかったけどよく話を聞いたり、見せてもらったりしていた。

 中学の時の私の初恋相手の彼女がYちゃんと知らず相談したり、高校の時紹介した男の子と、ものの3日で別れたり、私も彼女には振り回されたが、それでも一緒にいじめを克服した時の大事な仲間で親友で、とてもクレバーで強く美しく私の憧れ。どうしてるかな

 私はすぐ泣くし、Yちゃんみたいに強くない。ただ彼女と同じ点がある。自分の心の奥の核となる部分、絶対に曲げられないし、譲れないところ。周りからどう見られても、カッコ悪く、アホみたいなフリしても奥にあるものが信じられれば生きていけるのです。Yちゃんの底にある部分が私は信じることができた。私の初めての信頼できる友達の話でした。きっと誰にでもこういう経験ってあるはず。忘れないで生きていきたいものです。  

恋をするまで②

公開日 2021年11月26日

比江島慎選手 #6 宇都宮BREX

2021/4/21 秋田戦

このマコさん、あっちを向いているんですが、実はこっちを向いてる写真もあります。しかし訳あって封印してます。

 この日、お手洗いに行こうとベンチ横を通ったらちょうどまこさんがいていっぱい写真を撮ったんだけど、この時はスマホしか持ってなかったし上手に撮れなかった。。。

 4/21の秋田戦は104-73の100点ゲームで圧勝。比江島選手は19得点のチームハイ。もともと比江島選手のことは全然知らなかったので、私はこの試合を見たときとても興奮したのを覚えてます。バスケは素人なんでなにがどうとかは詳しく言えませんが、プレーのスキルが高いだけじゃなく、なんていうか映えるんだよね笑。とても魅力にあふれている。目を奪われるというか。正直に言うと見た目だけならもっとイケてる選手、バスケ選手には多い気がします(まこさんの見た目が好みの方ごめんなさい)。だけどわかったような気がしてます。まこさんってとても魅力的なんだな。バスケ姿がとても魅惑的だ。

 昨シーズン途中からマコさんを見ていくようになって、過去の動画やプレーを見るようになって、アリーナにも行けるだけ行こうとするようになって、少しずつとりこになっていって、まこドラができて、真っ先に会員になって(まったく迷いもしなかったし)初恋の時のように心が奪われていきました。4/21、この日は神がかっていました。知っての通り、この日はマコさんにとって特別な日。ほんとうに神が下りてきていたんですね。プレーが決まって空を仰いだ時は涙が出そうになったのを覚えています(でもこれは不思議な幸せな気持ちで)

 完全に魅せられて恋に変わった瞬間でした。 

 こうなったらもう駄目ね。底なし沼。幸せな気持ちで帰路につき、家に着いたとき、ふと。。。。あることに気づいたわけです。とっても恥ずかしい。やらかした。あほじゃん。なるほど。そういうことね。というわけでいろいろな意味で忘れられない日になりました。とほほ。

ま、ま、いよいよ代表戦だマコさんがんばれ、応援行くぞ。仙台まで片道300km!!次回いよいよ(なのか?)「アレの被り物の誕生秘話」につづく

怖いものなしの中学から初めての挫折へ

 浪岡中学校 卒アルより

中学に入学した。

私は団塊ジュニア、中学の学年は320人。8クラスまであった。小学校の先生がどのように配置したのか、明らかに意図があったと思う。入学早々小学校のいじめのボスは見事に2番手だったやつにいじめられていた。実は2番手だったやつは私の近所の子で幼馴染。家庭的に恵まれておらず、このあたりの地域の人には相手にされていない家庭の子であった(あそこのうちのこと遊んではいけません、とよそのおうちでは言っていたらしい) 

 その2番手だったMが中学ではボスになった。しかしMはぜったい私には逆らわない。私に嫌われるのだけは避けたかったと思われる。理由は、先に書いた、そのような家庭であって、それでも私の父は受け入れてたからだ(私の父は地方公務員であったが、大学では法律を学んでいた。人間はすべて平等であるべきだし、幸せに生きる権利も等しく付与されている。この価値観がのち、私の価値観のベースになる。老若男女区別しない、男であっても女であっても、年上だろうが年下だろうが尊敬できる人は尊敬できる、できねぇやつはできねぇ、これがホットパンツの生き方) 

 そして、私の世代は先輩後輩が厳しい時代であったが、私はこういう正確な故、なぜ、先輩が偉いのか意味が分からない(今でもわからない)。というわけで目を付けられやすかったが2個上の先輩に、姉妹くらい一緒に育った幼馴染のお姉ちゃんがいる。彼女も学年では幅を利かせていたため、先輩からいじめられることもなかった。 中学の頃は私は成績が良かった。優等生ではなかったが、いじめをなくしたり、もとより正義感も責任感も強かったので先生の受けもよかった。

 怖いものがなかった。人生で一番性格が悪かった時。 

 中学3年の時、いるだけの生徒会でアンケートを実施した。一番多かったのは校則について。普通の生徒は生徒会の仕事なんて全然興味がないと思う。だが校則についてはものすごい反響だった。やる気のない私でもこれだけは何とかしたいと思い先生に相談した。特別委員会を設置することを認めてもらえた。クラスから校則見直し委員を一人選任し、会議。名目上の委員長は生徒会長であったが、実質は私が運営した。当時の生徒会の顧問は社会科の先生。

「先生、どうやったら校則って変えられるのか」

「お前、公民学んでるだろ?条例を見直してほしい時、リコール請求するとき、どうするんだよ?住民自治勉強してるだろ」

「有権者の1/3の署名を集めます。そして議会に提出します」(正解かどうかは忘れた、当時の私は先生にこう答えた)

「ここではせめて9割は集めろ。その前にどの校則を見直してほしいのか、改善すべきか。多くは変えられない。しっかり精査しろ。職員会議には俺が持って行ってやる」

この先生、見た目は超オタクみたいで根暗に見える。がしかし、しっかり本質を見ていて、それがわかるぶん本当に信頼できると感じられる人だった。先生は自分の友人のやっぱり教員仲間から他校の校則を集めてくれた。

 結果、即実施できるもの、来年度から実施するもの。改正案通りました。下の学年は感謝したことだろう。このあたりの地域では、一番に男子の坊主がなくなったのだから。これをきっかけに近隣の中学で、校則の見直しが進んだらしい。永澤(?漢字あってるかな笑笑)先生のおかげで、彼だったから、答えではなくヒントをくれたのだと思っている。「条例を変えたい時どうするんだよ」知識は身に付けたらどうするのか?習ったばかりの知識を知恵に変える方法を彼が教えてくれた。この先生と出会ってなければ、あきらめていたかもしれない。自分でやると決めてやり切った、この校則の見直しは今後のわたしの自信になった。

 もう一度言うが当時の私は成績が良かった。模擬テストで県でも上位、一番いい時は県で3位。難関校と言われていた弘前高校は定員360名。他の地域に青森高校、八戸高校と進学校があるがそもそも県で上位なのだから、誰もがわたしが弘前高校に合格すると思っていただろう。自分も思っていた。私立なんて受験せず、弘前高校一本のみ。

私は当時は怖いものがなかった。しかし受験は不合格。

みんなが高校生になったとき、私は高校生にはなれませんでした。

そして「中学浪人から大好きな人がいた高校時代」につづく

泣き虫だった幼少期からいじめを克服するまで

近所の公園にて

幼稚園児から小学校卒業まで 

小さい時の私は人見知りだった。そしてやっぱりちょっと変わっていたようだ。病弱でいつも入院していた母の代わりに、父が家事と育児をこなしていた。そしてもうなくなった祖母が5kmはあろう道のりを歩いて私を見に来てくれた。 父が今でもいうが、幼稚園の記録簿や小学校の低学年までの先生の一言にはいつも「お友達の輪の中に入っていけません。おとなしすぎて心配です」と書かれていたらしい。当の本人といえば、実はこのころから無理して友達にならなくてもよいとか、自分の好きな遊びをしていたいとか、みんなの真似なんかしたくないとか、もうその頃から思っていた。今でもそうだけど、はやりものやみんながこぞって買うものとかに興味がない。そういう性格は小さい時だから余計に先生を不安にさせたのだろう。 近所の幼馴染も男の子ばかり。リカちゃん人形やバービー人形は持ったことがなかった。ミミズやカエルを追いかけ、小学校の時は男の子からカブトムシの幼虫をもらって、

朝から夕方まで幼虫から蛹に変わるまでをずーっと見ていたこともある。(わたしの子供たち、長女も長男も二人とも理系で長男も生物選択である。希望の大学もそっち。高2) 

 周りに合わせず、普通のおままごと遊びをしないせいもあって、低学年まではよくからかわれていた。よく泣きながら家に帰ったものだ。 

小学校4年生でクラス替えをした。

近所で、また同じクラスになった腐れ縁のMに

「Kと口きくなよ」と。「何でよ、それ言うこと聞かなきゃダメなの」と言い返したがもうすでに、新しいクラスメイトはKを無視していた。いじめの始まり。

この後6年生まで続く壮絶ないじめ。ほかのクラスを巻き込んで、部活動が停止になって(マーチングをやっていたが県代表は取れなかったものの、強かった。県代表は当時弘前市立文京小学校と城東小学校が全国上位の常連で、青森県は代表は2枠しかなかったのでこの2校を抜いて県代表をとるのは至難の業だった。特別枠で初の招待校として東北大会で演技)

教育委員会が間に入るようないじめ。

私は被害者も加害者も経験した。いじめられないためにいじめに参加した。情けない自分に向き合えない日々。悔しい。いじめられることがじゃない。立ち向かえない情けない自分に腹が立った。 6年生になっても続いた。このころになると男女の性別がはっきりとわかる成長期だ。いじめの質も変わる。限界だった。友達を誘って自分たちだけでも抗おうと決めた。仲間を集うとき、「あと少し待てば卒業だよ。目を付けられるの嫌だし、私はおとなしくしてる。誘わないで」と断ってきた子もたくさんいたが、とりあえず5人で逆らった。そしたら逆風が吹くものだ。誘わないでといった子たちも全員こっち側に。いじめる側が今度仲間割れをしだして、だれがボスかわからなくなった。情けない自分から、いじめを自ら克服した瞬間だった。 私の住んでいた地域は小学校7校が1校の中学校に集まる。自分の小学校、浪岡北小学校はその中でも1番大きく、一番荒れていた小学校だった。その中でも私のクラスが最悪だった。いじめのボスに逆らおうと声を出したのは私だった。。。 

そして中学へ

初ブレ友&マコ友

宇都宮brex #18 鵤 誠司選手
2021/4/14 vs横浜

 比江島慎選手のオンラインサロン まこドライ部(通称まこドラ)が開設されて初めてのアリーナ観戦。(2021/4/14 横浜ビーコルセアーズ戦 home ブレックスアリーナ)

この試合の前、オンラインサロンのコメント欄に、

「●●の席です。お時間がある方、仲良くしてくださる方是非お声がけください。No.18のTシャツ着て応援してます」

と宣言。(昨シーズンは諸事情より比江島選手の番号付けられませんでした)

誰かに声かけてもらえればいいなと思いながら会場入り。そうはいっても、誰だって警戒するし、そうそう声かけられない方のほうがきっと多いのでしょう。

私、自分で人の迷惑も考えずに話しかけちゃうほうだから、それ基準に考えちゃうんですよね。悪いところ。ちゃんと距離感考えて行動しろよっていつも自分に言い聞かせてるのだが、反省するだけで終わてしまう。

まあ、仕方ないか、オンラインサロンって顔が見えないところがいいところで、今の時代に合ってるのかもしれない」

と諦めました。

 ところで、この日、私の席はプレミアム指定席ベンチ後ろ。そしてブレッキーがマスコットNO.1になって記念撮影ができるという特典がある日。

サイドラインレポートの時、運よくというか、皆さまブレッキーのところへ行ってまして、席はガラガラ。そしてなんとサイドラインレポートはまさかの鵤 誠司選手。私の目の前には遮るものは何もない状態で鵤選手が。これ見よがしにNo.18のTシャツをアピール。

まあ見てはもらえませんでしたけどね。

しかし見てくれてた方もいてくれたんです。

 Sちゃん。

まこドラの方で私のコメント読んでくださってた。ありがたい。たまたま、サイドラインレポートが鵤選手で、Tシャツをアピールできたから、Sちゃんが18番のTシャツを見つけることができたんです。

そして声をかけてくれた。

 私の初ブレ友さんでまこ友さんです。

彼女をきっかけに、このあともいろいろな方を紹介していただき、アリーナ観戦がますます楽しみになりました。

この重なった偶然が今の充実してる私につながっています。

いつもありがとう、感謝しかないよ。

今後の私のアリーナ劇場につながるプロローグなお話でした。

ジョジョ考察①「実は哲学書」

ジョジョの奇妙な冒険 作者 荒木飛呂彦 
(一部ネタバレを含みます)

※稚拙な文章で申し訳ありません

 かの有名少年誌、週刊少年ジャンプに長い間掲載され続けている(8部ジョジョリオンはウルトラジャンプ)、ジョジョの奇妙な冒険(作者 荒木飛呂彦)は私の大好きなマンガである。  実家にいた頃、というか子供の時、弟が買ってたし週刊少年ジャンプは定期購読していた。そのころはスラムダンク(作者 井上雄彦)、幽遊白書(作者 冨樫義博)が目的で読んでいたのだが。ある時、ページをめくっていると、自分の目がおかしくなったのか?と思われるシーンが。当時はジョジョでは第3部、主人公は一番有名な空条承太郎。このシーン、わかる人ならわかる、ヌケサクが自分で棺桶開けたのに棺桶の中に自分が入ってるシーン。この奇妙な感じの謎が知りたく読み続けてはまっていってしまった感じだ。(1部2部、3部の途中までを読んだのは大学生になってから)
 このマンガ、よく取り沙汰されるのは、擬音、ジョジョ立ち、絵が苦手な女子が多い、など。ある意味とても有名だ。そしてコアなファンも多い。だがしかし、ただの冒険譚でも、奇妙な漫画でもない。作者の荒木飛呂彦氏の価値観や哲学がとても反映されている。その部その部でテーマがあって、そのテーマに対抗するような形でラスボスが設定されている。この部分が一番わかりやすいのは第5部。
 第5部の終盤、主人公チームの1人アバッキオの同僚が夢の中で言うセリフ(名言で有名)「結果だけを求めていると人は近道をしたがるものだ、、、、、、」「大切なのは真実に向かおうとする意志だと思っている。向かおうとする意志さえあれば、、、いつかはたどり着くだろう?向かっているわけだからな。違うかい?」 学生であっても、社会人であっても求められてるのは今の時代、結果だ(成果主義)。それは私も会社員であるしわかっている。しかし一歩間違うと評価を誤りがちだ。結果だけで評価するとこの先同じ事象が発生した時、対応できると限らないからである。目的のためにしかるべき道のりを進んでいったからこそ実を結ぶことができた結果。しかるべき道を進んだ時そこには足跡が残る。この道標があるからこそ次に進む時迷わず向かうことができ、結果たくさんの実をつけることができるのではないか。過程を蔑ろにして結果が出たとしても、それは後には続かない。その時だけ結果が出ているように見えても実はいくつも先を見据えた時大きく後退して行くであろう未来が見える。 ボスのディアボロの有名なセリフ「『結果』だけだ!この世には『結果』だけが残る」途中の過程を吹っ飛ばし、結果だけが残る能力。しかし、真実に向かって進む主人公たちに追い詰められ、『結果』にたどり着けない、という主人公の覚醒した能力によりボスは倒れ去る。 この他第3部のボス、DIOの名言「過程や方法なぞどうでもいいのだ、、、」であったり、第6部のボス、神父プッチが言う「5年後の未来、なにが起こるのか?人類全員がそれを知っている。、、、すでに体験してここにきた。そしてそれこそ『幸福』である。独りではなく全員が未来を『覚悟』できるからだ『覚悟した者』は『幸福』である!」  この二つの例と合わせて、抗えない「結果」に対して人はどうすべきか?「結果」が変わらないのだから「結果」だけ知っていれば良い、またその「結果」は運命によって決まっているのだから尚更過程などは要らず、訪れるであろう結果を知ることがわかれば人は安心することができる。それを求める事が幸せに生きることに繋がる、、、ということなのだろうが、この抗えない運命によって決まっている「結果」、人は運命に逆らえない、、、この「運命」の部分
 第5部エピローグは「運命の奴隷」「誰が言ったか、、、我々は皆『運命』の奴隷で、変えることのできない運命に頭を垂れ隷属せざるを得ない、、、」主人公チームの何人かは死んでいく運命はもう決まっていることでも、その先に進むことでかえって一層苦しい死が待っていようとも、それでも彼らの取った行動には何か意味があるとし、彼らを「眠れる奴隷」と表現している。運命で決まっている結果が同じであっても、進む過程で未来に何かをもたらすかもしれない。
 今ある自分は全て「運命」で決まっていた結果。この先もたらされる「結果」も決まっているのかもしれないが、であれば尚更自分が後悔しないように前へ進もう。迎える結果が同じであっても進んできた道で他の成果が生まれるように努力しよう。
 私が歩んできた道は私1人ではたどり着けなかった道。失敗ばかりであったが、とても誇らしいのは私に関わってくれた彼らのおかげだと思っている。私にとってはこのマンガは偉大な哲学書なのだ。

(ジョジョ好きな方、勝手な考察謝っておきます)

次回、尊敬すべき団塊の世代「私の両親のこと」